第10話:無血の玉座と空っぽの金庫
エリュシオン王都の城門が、重々しい音を立てて開かれた。
そこから出ていくのは、かつて大陸最強と謳われたシュヴァルツェイン帝国軍の敗残兵たちである。
黒鋼の鎧も、鋭い長剣も、誇り高き軍馬も、すべてを丘の上の天幕に置いてきた彼らは、薄汚れたボロ布を纏い、配給された固パンを齧りながら、亡霊のようにトボトボと北の山脈へ向かって歩き去っていく。
一滴の血も流すことなく、ただ「胃袋」を支配するだけで十万の大軍を追い返したのだ。
そして入れ替わるようにして、王都のメインストリートを、長大な荷馬車の列が進んでいく。
金や銀で装飾された凱旋パレードではない。小麦や干し肉、新鮮な野菜を山のように積んだ、無骨な補給部隊の行進である。
「おお……! 麦だ! 本物の麦だぞ!」
「第7王子殿下万歳! エリュシオン万歳!」
沿道を埋め尽くした王都の市民たちは、涙を流して歓喜の声を上げていた。
彼らにとって、きらびやかな鎧を着て逃げ出した第1王子など、もはやどうでもよかった。極限の飢えから自分たちを救い出し、温かいパンをもたらしてくれた「解放者」にこそ、心からの忠誠を誓っていた。
「ふふっ。素晴らしい光景ですわね。民衆は今や、王家の権威ではなく、殿下の配るパンにひざまずいていますわ」
馬車の上で、ロザリアが艶やかな黒髪を揺らしながら微笑む。
その隣で、アルスは歓声に手を振ることもせず、ただ手元の帳簿(羊皮紙)に羽ペンを走らせていた。
「詩的な表現は不要だ、ロザリア。市民の健康状態は最悪だぞ。急に重いものを食わせると胃が破れる。まずは薄いスープと消化の良い粥から配給しろ。……ガイウス、列が乱れないよう警備を徹底しろ」
「はっ! 暴れる愚か者がいれば、峰打ちで鎮圧します」
アルスの冷徹なまでの事務処理能力によって、王都の混乱は瞬く間に収束していく。
暴動も略奪も起きない、完璧に管理された平和。
やがて一行は、王城の最深部――豪華絢爛な玉座の間へと到達した。
かつて父王が座り、つい数日前までは帝国の将軍がふんぞり返っていた、国で最も権威ある椅子。
しかし、アルスは玉座を一瞥しただけで、全く興味を示さなかった。
「装飾過多で座り心地が悪そうだ。腰を痛める。……それよりも、行くぞ。この国の『財布』の確認が先だ」
アルスが真っ先に向かったのは、王城の地下深くにある巨大な大金庫だった。
重厚な鉄の扉を、ガイウスが自慢の剛力で押し開ける。
国を運営し、兵を養い、そしていずれ来る帝国との全面戦争に備えるための、莫大な軍資金。
それが眠っているはずの金庫室に足を踏み入れた瞬間――。
「……これは、どういうことだ」
ガイウスの低い声が、薄暗い地下室に響いた。
空っぽだったのだ。
山のように積まれているはずの金貨も、宝石も、貴重な魔石の類も。
そこにはただ、ネズミの死骸と、価値のない数枚の銅貨が転がっているだけだった。
「……なるほど。そういうことですか」
ロザリアが扇で口元を隠し、冷ややかな声で言った。
「国王陛下や高位の貴族たちは、帝国軍が攻めてきた時、ただ逃げ出したわけではないということです。国の財産を根こそぎ馬車に積み込み、南の別荘地や同盟国へ持ち去ったのでしょう。……文字通り、この国を『見捨てて』ね」
「あの豚共ォ……ッ!!」
ガイウスが激昂し、近くの石柱を怒りに任せて殴りつける。
石柱にヒビが入り、地下室が小さく揺れた。
「民を飢えさせ、国を捨てておきながら、自分たちだけは黄金のベッドで眠っているというのか! 殿下、今すぐ追討軍を編成しましょう! あの腐りきった貴族共から、国庫の金を奪い返さねば!」
「……やめろ、ガイウス。怒るだけ無駄だ」
激怒する猛将を制し、アルスは空っぽの金庫の真ん中に立ち、静かに羊皮紙を広げた。
その灰色の瞳には、怒りではなく、極めて冷徹な「計算」の光が宿っていた。
「逃げた連中を追っても、金はすでに他国の商人や銀行に隠されている。武力で取り戻そうとすれば、今度は他国との戦争になるだけだ」
アルスは羊皮紙の上に、新たな項目を書き加える。
「戦争には金がかかる。兵の飯代、武器の修繕費、物流網の維持費。……今、我が陣営の帳簿は、最悪の『赤字』だ。このままでは、ひと月も経たずに兵站が崩壊する」
食糧の現物(在庫)はある。だが、それを動かすための血液である「金」がない。
国家という巨大なシステムを運営するためには、武力や心理戦だけでは不十分なのだ。
「ガイウス、ロザリア。方針を変更する」
アルスが振り返り、絶対の自信に満ちた声で宣言した。
「帝国への侵攻は後回しだ。まずはこの空っぽの財布を立て直す。……武力ではなく『商売』で、大陸中の金を俺たちの帳簿に吸い上げるぞ」
「商売、ですか?」
首を傾げるガイウスに、アルスは頷いた。
「ああ。だが、俺は物資の管理はできても、金を増やす錬金術は持ち合わせていない。……だから、探しに行く」
アルスの指先が、地図の南――海に面した巨大な商業都市を指し示した。
「金のためなら悪魔にでも魂を売るような、強欲で、計算高く、そして俺の『兵站』を最大限に活かせる『経済の天才』をな」
武力で圧倒した時代に終わりを告げる時が来た。
ここから始まるのは、剣と魔法ではなく、金貨と物流が飛び交う過酷な経済戦争。
最弱の第7王子による、大陸の覇権を懸けた本当の「国盗り」が、幕を開けたのである。




