第11話:海峡の黄金と底辺の天才商人
エリュシオン王国と海峡を隔てた南に位置する、ヴェネーラ商業連盟。
その玄関口である自由貿易都市ポルトは、むせ返るような香辛料の匂いと、行き交う商人たちの怒号、そして「金貨の響く音」に支配されていた。
「……ひどい人混みだ。油断すると財布をすり取られそうだな」
私服のローブをすっぽりと被ったガイウスが、周囲を警戒しながら眉をひそめる。
戦場では一騎当千の猛将も、ルール無用の商人がひしめくこの街では勝手が違うらしい。
「力で奪うより、笑顔で騙し取る方が効率が良い。それがこの街のルールですわ」
同じくローブで素性を隠したロザリアが、扇の陰でくすくすと笑う。
その先頭を歩くアルスは、周囲の喧騒など一切気にする様子もなく、街を行き交う荷馬車の数と積荷の種類を、恐ろしいスピードで羊皮紙に書き留めていた。
「……街の西側から入る小麦の量が少ない。関税の帳簿を誤魔化して意図的な品薄状態を作り、パンの価格を吊り上げているな。実に非効率で、腹立たしいほど貪欲だ」
兵站の完璧な循環を愛するアルスにとって、一部の商人が利益を独占するために物流を滞らせる行為は、万死に値するものであった。
そんな三人が、街で最も巨大な『大黒屋商会』の建物の前を通りかかった時のことだ。
「ふざけるな! 契約が違うじゃないか!」
ドンッ、という鈍い音と共に、商会の立派な扉から一人の少女が路地裏の泥水の中へと蹴り出された。
燃えるような赤毛に、油と泥で汚れた作業着。
少女の腕からは、大事そうに抱えられていた分厚い帳簿が数冊、無惨に地面へと散らばった。
「契約だと? 笑わせるな、小娘」
商会の中から、毛皮のコートを着込んだ肥満体の豪商が、見下すように鼻で笑った。
「お前が考案した『馬車を使わずに水路で小麦を一括輸送する』というふざけた計画のせいで、我々陸運ギルドの利益が損なわれるところだったのだ。だから、水路の入り口に少しばかり『岩』を落としてやっただけだぞ?」
「あんたらの妨害のせいで、私の船は沈んで小麦は全部海の底だ! 借金だけが残ったんだぞ!」
「商売は自己責任だ、ネリア。……さあ、銀貨一万枚の借金、どうやって返してもらうかな。お前のその若くて綺麗な体なら、裏の娼館で十年も働けば返せるだろうよ」
下劣な笑いを浮かべる豪商と、取り囲む用心棒たち。
ネリアと呼ばれた少女は、泥だらけの手で地面の帳簿をかき集めながら、悔しさに唇を噛み切らんばかりに震えていた。
(……私の計算は、完璧だったのに。物流のコストを半分にできる、最高のアイデアだったのに……っ!)
どんなに優れた理論(数字)を持っていても、それを守り抜く「力」と「金」がなければ、既得権益という暴力の前にあっさりと踏みにじられる。
それが、商人の世界の残酷な現実だった。
「……おい、そこを退け。俺の羊皮紙が泥で汚れる」
不意に、少女の頭上から冷ややかな声が降ってきた。
ネリアが顔を上げると、銀髪の青年が、泥水の中に落ちた彼女の帳簿の一冊を拾い上げていた。
「な、なんだお前は! それは私の帳簿だ、返せ!」
ネリアが叫ぶが、青年――アルスは帳簿のページをパラパラと素早くめくり、その灰色の瞳に微かな驚きの色を浮かべた。
「……水路の高低差を利用した、水門による自動運搬システム。さらに天候による価格変動を見越した先物取引の概念か。……なるほど」
アルスは帳簿をパタンと閉じ、ネリアを見下ろした。
「お前の脳内にある『数字』は、極めて美しい。……だが、物理的な防衛コストの計算が完全に抜け落ちている。だからこんな三流の豚共に足元をすくわれるんだ」
「三流の豚だと!?」
豪商が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「どこから来たか知らんが、その小娘は我が商会に銀貨一万枚の借金があるんだ! 余計な口出しをするなら、お前も――」
「お前の商会が抱えている負債に比べれば、銀貨一万枚など小銭だろう」
アルスが冷たく言い放つと、豪商の動きがピタリと止まった。
「な、何を……」
「お前たちの商会は、最近エリュシオン王国の貴族から大量の『黒鋼』を高値で買い取ったな? 帝国との戦争が長引くと踏んで、鉄の価格を吊り上げるために」
アルスの言葉に、豪商の顔からさぁっと血の気が引いた。
それは、商会の幹部しか知らないはずの極秘の投資だったからだ。
「だが、残念だったな。エリュシオン王国はつい先日、帝国軍から十万人分の黒鋼の鎧を『タダで』巻き上げた。今頃、王都の鍛冶場では余った鉄がクワや鍋に作り変えられている」
「じゅ、十万……だと……?」
「俺がその気になれば、明日この街に数万トンもの黒鋼を原価割れで放出し、鉄の価格を大暴落させることができる。……お前の商会が抱えた大量の在庫は、ただの重たい鉄屑に変わるというわけだ」
アルスは、冷や汗を流して震え上がった豪商の鼻先に、一冊の羊皮紙を突きつけた。
「この女の借金は、俺が帳消しにしてやる。代わりに、お前の商会が抱える物流網をすべて俺のシステムに組み込め。……断るなら、明日お前は首を括ることになるぞ」
剣も魔法も使わない、純粋な『数字』と『情報』による圧倒的な蹂躙。
ヴェネーラ商業連盟の底辺で泥水をすすっていた天才商人ネリアが、大陸最恐の「兵站王」と出会った瞬間であった。




