第12話:絶対の帳簿と強欲なる赤毛
「ひぃぃっ……! わ、分かりました! 借金は完全に帳消しにします! うちの物流ルートも、すべて無償でお譲りいたしますからぁっ!」
豪華な毛皮のコートを着た豪商は、泥水に頭を擦りつけながら泣き叫んだ。
彼にとって、大量に買い込んだ黒鋼の在庫は商会の命運を握る全財産だ。
もし本当に鉄の価格が大暴落すれば、商会が潰れるだけでなく、投資していた裏社会の人間から文字通り「命」を狙われることになる。
アルスは豪商の懐からネリアの借用書を抜き取ると、ガイウスの持っていた松明の火に近づけ、あっさりと燃やして捨てた。
「交渉成立だ。物流ルートの引き継ぎには、後で部下を向かわせる。……行くぞ」
アルスは呆然と座り込んでいる赤毛の少女、ネリアの襟首を掴み、そのまま路地裏から引きずって歩き出した。
◆
ヴェネーラ商業連盟、最高級宿の一室。
案内された部屋のテーブルには、湯気を立てる山盛りの肉料理と、バターをたっぷりと塗った白パンが並べられていた。
「……んぐっ、むぐむぐ! ぷはぁっ、食ったー!」
ネリアはまるで何日も飢えていた獣のように、テーブルの上の料理を猛然と平らげた。
口の周りを脂だらけにして息をつく彼女を、アルスは冷ややかな目で観察している。
「脳を動かすにはカロリーが必要だが、早食いは消化に悪いぞ。胃酸の無駄遣いだ」
「うるさいな! 泥水すする生活してたら、早食いにもなるんだよ!」
ネリアは食後の果実水を飲み干すと、ギラギラとした目でアルスを睨みつけた。
「で? あんた、一体何者なんだ? 大黒屋の親父を鉄の相場で脅し上げるなんて、普通の商人じゃない。それに、十万人分の黒鋼を奪ったエリュシオン王国の情報を、どうしてそんなに正確に知ってるんだ?」
「あら。まだ気づいていなくて?」
部屋の隅の長椅子で優雅にワインを傾けていたロザリアが、妖艶な笑みを浮かべる。
「あなたが今、汚い手でパンを貪りながら口答えしているその御方こそが、無敵の帝国軍をたった一人で追い返した、エリュシオン王国の第7王子殿下ですわよ」
「……は? だいなな、おうじ……?」
ネリアの動きが完全に停止した。
大陸の経済を牛耳るヴェネーラ商業連盟においても、「エリュシオンの第7王子が帝国の十万の軍勢を消し飛ばした」という噂は、最もホットな情報として飛び交っている。
「ば、馬鹿な! 王族がこんな泥臭い商業都市に、しかも護衛二人だけでお忍びで来るわけが――」
「お前のその計算式が、俺の『数字』と合致するか試させてもらうぞ」
ネリアの言葉を遮り、アルスはテーブルの上に一枚の羊皮紙を広げた。
それを見た瞬間、ネリアの商人としての天才的な頭脳が、雷に打たれたように衝撃受けた。
「……な、なんだこれ……っ!?」
羊皮紙の上には、アウレリア大陸全土の地図が描かれており、無数の光の点が蠢いていた。
どこで麦が収穫され、どこへ運ばれているのか。
どの街で鉄が不足し、どの港に外国の商船が停泊しているのか。
それらすべての『物流と在庫の数字』が、リアルタイムで表示されていたのだ。
「こ、こんなの……あり得ない! 世界中の物資の動きが、一目で分かるなんて! こんなものがあれば、いつ、どこで、何を売れば一番儲かるか『絶対の正解』が分かるじゃないか!」
「そうだ。俺の兵站システムは、この大陸のすべての物資の動きを把握している」
アルスは淡々と告げた。
「だが、俺は軍の胃袋を満たすことはできても、人の欲望を煽り、数字を『金』に変える錬金術は専門外だ」
アルスはネリアの泥だらけの帳簿を指差す。
「王都の金庫は、腐った貴族どもに持ち逃げされて空っぽだ。軍を動かすための金が決定的に足りない。……俺のシステムを使って、お前の理論を実現しろ。俺の帳簿を黒字にするためなら、手段は問わない」
「……つまり、私にこの大陸中の富を、合法・非合法問わずに全部吸い上げろってこと?」
ネリアの瞳が、歓喜と興奮で小刻みに震え始めた。
ずっと夢見ていたのだ。
自分の完璧な計算式が、誰の妨害も受けずに、世界を思い通りに動かす瞬間を。
目の前の王子が差し出しているのは、商人の世界における「全知全能の神の力」そのものだった。
「……ふ、ふふっ。あははははっ!」
ネリアは立ち上がり、赤毛を揺らして高らかに笑った。
「最高だ! 悪魔との契約より魅力的だよ! いいだろう、私が殿下の『財布』になってやる! 私をコケにした連中も、この大陸の金貨も、全部私の計算式で喰い尽くしてやる!」
「契約成立だ。まずはあの肥え太った『大黒屋』の資産から解体するぞ。徹底的に絞り上げろ」
「了解、マイ・ロード! 毛の先までむしり取ってやるよ!」
絶対的な物資の支配者と、人の欲望を金に換える天才商人。
武力で圧倒した帝国軍とは異なる、もう一つの戦争――エリュシオン王国の財政を立て直し、大陸の経済を支配するための「血も涙もない錬金術」が、今ここに幕を開けた。




