第76話:領域侵食の獣(バッファ・オーバーフロー)と完全消去(ガベージコレクション)の鉄槌
死の海――「未初期化領域」に敷設されたばかりの氷の軌道を、超弩級列車『リヴァイアサン』が猛烈なスピードで爆走する。
その前方に立ちはだかったのは、無数のバグコードと未定義データがねじれ合って生まれた巨大な異形、『領域侵食の獣』だった。形を持たないはずのノイズが、世界の処理限界を超えたことによって「物理的な破壊衝動」という最悪のバグとして実体化していた。
「キィィィン、ガガガガガガッ!!」
獣が咆哮を上げた瞬間、リヴァイアサンの周囲の空間に、黒いヘドロのような「不正なデータ群」が土砂降りの雨となって降り注いだ。それは接触した物質のメモリ領域を強制的に上書きし、存在そのものを文字化けさせて崩壊させる恐るべき攻撃だった。
「防衛システム展開! 陛下の敷いたレール(領域)に、ゴミデータを一滴たりとも落とすな!」
先陣を切ったのは、近衛騎士団長ガイウスだった。彼が大盾を天へ掲げると、帝国兵たちの放つ魔力が一つに結集し、巨大な黒鋼の光のドーム――強固なファイヤーウォール(パケット・フィルタリング)を列車の周囲に展開した。
黒いヘドロがドームに激突し、凄まじい火花とエラーログを散らす。
「ぐっ……! な、なんという質量だ! 防壁の耐久値が、急速に削られていく!」
「あはははは! 面白い、面白すぎるよ!」
ガイウスの背後から、ルナが歓喜の声を上げながら飛び出した。彼女は両手に持った特製の注射器を、侵食の雨の隙間を縫って獣の本体へと投擲した。
「ボクの『例外処理薬』を食らいな! 君の未定義な細胞配列に、強制的に終了コードを割り込ませてあげる!」
紫色の薬液が獣の表皮で弾け、バグコードの一部が溶解して白煙を上げる。しかし、獣は痛覚の定義すら持っていない。削られた端から周囲の混沌を吸収し、さらに巨大に、さらに凶悪な姿へとバッファを膨張させていく。
「おい王子! 敵の質量がデカすぎる! このままじゃ敷設した軌道の限界領域を食い破られて、列車ごと海の底へ真っ逆さまだぞ!」
操車室のバルドが、悲鳴を上げる計器を叩きながら通信機で叫んだ。
だが、艦首デッキに立つアルスの瞳に、焦りの色は微塵もなかった。
彼は迫り来る巨大なバグの津波を冷徹に見据え、右手の【掌握の刻印】を静かに展開した。
「慌てるな。敵がこちらの確保した領域から溢れ出ようとしているなら、溢れた瞬間に、システムにとって不要な『参照されないデータ』として処理すればいい」
アルスの思考が、世界の深淵の論理へとダイブする。
しかし、これほど巨大なバグデータを一括で消去するためには、対象の動きを完全に「静止」させ、計算リソースを一つの関数に集中させる必要があった。
「――ならば、私が止めますわ。貴方の論理に、一ミリのエラーも割り込ませはしません」
アルスの背中に、冷たくも甘い、極上の温もりが密着した。
ロザリアがアルスの首筋に腕を回し、自身の生身の手をアルスの刻印へと重ね合わせる。彼女の白く美しい肌から、未定義の混沌すらも凍りつかせる絶対零度の魔力が、青白いオーラとなって立ち昇った。
「アルス様。あの醜いバグは、私たちがこれから紡ぐ新しい世界の歴史には、一文字たりとも必要のない『ゴミ(ガベージ)』ですわ。……私の愛のすべてを使って、あいつの時間を止めてみせます!」
「ああ、頼む、ロザリア。お前のその絶対の愛(定数)こそが、私の計算を完成させる唯一の鍵だ」
アルスはロザリアの腰を左腕で強く抱き寄せ、彼女の唇に一瞬、しかし熱烈な口づけを落とした。
そのキスを合図として、ロザリアの【最高純度静止魔力】が爆発した。
「凍りなさい……ッ!!」
ロザリアの叫びと共に、リヴァイアサンから放たれた極低温の波状攻撃が、迫り来る黒い津波と獣の本体を直撃した。バグデータの狂ったような振る舞いが、ミリ秒単位で減速し、ついには完全な「氷の彫像」として海上に固定された。
「完璧だ、ロザリア。対象のメモリ参照の完全な断絶を確認した。これより、不要データのパージを実行する」
アルスの銀色の瞳が、極光のごとく輝きを放つ。彼はロザリアと重ね合わせた手を天へと突き出し、世界の基盤システムへと直接命令を叩き込んだ。
「システム・完全消去! 我が王国のメモリ空間に寄生する無価値なバグよ、虚無の彼方へ消え去れ!」
二人の刻印から、太陽すらも凌駕する純白と漆黒の閃光が放たれた。
その光が氷漬けになった『領域侵食の獣』を貫いた瞬間、音すらなく、獣の巨体は光の粒子――ただの「0と1」の羅列へと分解され、死の海の未定義領域へと完全に還っていった。
圧倒的な消去の鉄槌。
ヘドロの雨は晴れ、リヴァイアサンの周囲の空間には、再びエリュシオンの澄み渡った論理の静寂が戻ってきた。
「……はぁ、ふぅ。やりましたわね、アルス様」
極限の冷却魔力を放出したロザリアは、少しだけ上気した頬をアルスの胸に擦り寄せながら、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。お前という最高の冷却装置のおかげで、帝国のメモリは今日もクリーンに保たれている」
アルスは彼女の美しい銀糸のような髪を優しく撫で、その額に深い愛を込めて口づけをした。
「お、おい! 王子! 前を見ろ!」
バルドの興奮した声が、ドックのスピーカーから響き渡った。
バグの獣が消滅し、死の海を覆っていた深いノイズの霧が晴れていく。
その向こう側、遥か水平線の彼方に――彼らの知る大陸とは全く異なる、金属的な光沢を放つ巨大な幾何学構造の沿岸線が見え始めていた。
それは、未知のプロトコルで構築された他大陸。エリュシオン・カーネルがまだ接続を果たしていない、完全なる『外部サーバー』の姿だった。
「……どうやら、向こうの『ポート(港)』が見えてきたようだな。ゲートは閉じているようだが、相手が拒絶するなら、力ずくでハッキングして開けるまでだ」
アルスは目を細め、新天地を見据えながら冷たく微笑んだ。
その腕の中には、彼を絶対の愛で見つめるロザリアがいる。
新たなる世界、新たなるバグ、そして新たなる秩序の構築。
死の海を渡り切った帝国軍は、皇帝と皇后の理性を超越した絆を乗せ、未知なる大陸との『ファースト・コンタクト』へと、その鋼鉄の車輪を突き進めていくのだった。




