第75話:極洋の敷設起工(ローンチ)と未定義領域(バッファ・オーバーフロー)の怪物
「全大陸統合戦略室」の眼前に広がるホログラムに、エリュシオン帝国の版図の端――かつて「死の海」と呼ばれていた極洋の境界線が映し出されていた。
死の海。そこは塩水で満たされた物理的な海ではない。世界システム『エリュシオン・カーネル』の旧規格において、メモリの割り当てすら行われていなかった「未初期化領域」。何の実体も定義も持たない混沌とした情報がノイズの波となって狂い咲く、生命にとっては触れた瞬間に存在そのものが「ガベージ・コレクション(破棄)」される暗黒の境界線だった。
「バルド、進捗はどうだ。未定義の混沌を渡る『足場』は完成したか」
皇帝としての冷徹な威厳を纏い、アルスは最前線に新設された極洋ポート・ベース『オメガ』のドックを見下ろしていた。
「おうよ、王子! いや、今は皇帝陛下だな! 職人の意地を込めて、一晩で組み上げてやったぜ。こいつが俺たちの新しい翼――『浮上式軌道敷設重装列車・リヴァイアサン』だ!」
バルドが自慢げに巨大なレバーを引き下げると、ドックの隔壁が開き、その全貌が姿を現した。
それはこれまでの『ガルガンチュア』をさらに巨大化させ、船体側面から幾重もの電磁浮上プレート(ホバー・システム)を展開した、まさに「鋼鉄の浮きドック」とも呼ぶべき異形の超巨大列車だった。車輪だけでなく、空間の重力子そのものをレールとして利用し、液体とも気体ともつかない死の海を滑るように進む設計が施されている。
「陛下、すでに近衛騎士団の精鋭は乗車を完了。いかなる不測のデータに対しても、その盾を以て遮断いたします」
ガイウスが磨き抜かれた黒鋼の魔導鎧を軋ませて敬礼した。
「あはは! 素晴らしいよアルス! 死の海に蠢く『未定義の原生データ』たち、こちらの規格で物理的な体を当てはめたら、どんな面白い叫び声を上げるかなぁ? ボク、注射器の準備は万端だよ!」
ルナが狂気的な笑みを浮かべ、様々な試薬が詰まったドクターバッグを抱えて甲板へと乗り込んでいく。
「これより『死海渡航プロトコル』をローンチする。リヴァイアサン、発車しろ。混沌の海に、帝国の新秩序を敷設するのだ」
アルスの冷徹な号令と共に、リヴァイアサンは黒い煙と青白い魔力パルスを爆発的に放ちながら、実体のない死の海へとその巨体を滑り込ませた。
シュウウウウウウ――!!
列車の底部が未初期化領域のノイズ波と接触した瞬間、空間全体から「バリバリ」と不快なバグ音が鳴り響き、物理的な装甲の分子結合が激しく振動を始めた。データが未定義がゆえに、装甲が「固体」であるという定義すら剥ぎ取られそうになっているのだ。
「ぐっ、計器の数値が限界を超えてやがる! メモリの書き込みエラーだ! このままだと列車が定義不全で自壊しちまうぞ!」
バルドが叫ぶ。
「慌てるな。未定義ならば、こちらの規格で一瞬ごとに『メモリの領域確保』を実行し、道を強制的に物理化すればいい」
アルスはリヴァイアサンの艦首デッキに立ち、右手の【掌握の刻印】を混沌の海へと向けた。彼の頭脳が、海の最深部で渦巻く「意味を持たない乱数」を網羅し、瞬時に構造化コードへと変換していく。
だが、死の海のデータ量は、一国の地脈データすらも遥かに凌駕する「無限」に近い混沌だった。アルスの【掌握の刻印】が過負荷で熱を帯び、彼の右腕の皮膚が、チリチリとしたノイズとなって明滅し始めた。
「――お下がりください、アルス様。ここから先は、私の『絶対零度』が、不確かな世界を硬質な氷へと変える領域ですわ」
その時、アルスの背中に、冷涼で、そしてこの世の何よりも甘く愛おしい体温が密着した。
漆黒の皇妃のドレスを風になびかせたロザリアだった。彼女はアルスの首筋にその華奢な両腕を回し、自身の生身の手をアルスの刻印の上から優しく重ね合わせた。
彼女の胸の奥から放たれたのは、混沌そのものを強制的に「静止」させ、揺らぎのない確定データとして凍りつかせる、究極の存在固定魔力。
「ロザリア……。やはりお前の補助がなければ、外洋のデバッグは完了できないな」
「ふふ、当たり前ですわ。世界がどれほど混沌に満ちていようとも、私は貴方のための唯一の『絶対の法則』。さあ、アルス様、二人の愛の式を、この不毛な海に叩き込んでやりましょう!」
ロザリアはアルスの頬に自らの額を重ね、深く、甘く、自身の魂の全プロセッサを同調させた。
二人の刻印が純白の輝きを放ち、アルスの脳内のノイズは一瞬にして完全にフィルタリングされた。超人的な演算速度を取り戻したアルスは、死の海の混沌に向けて、領域確保の「限界突破コード(メモリ・アロケーター)」を高速でオーバーライトしていった。
「システム・無制限領域確保(バッファ・オーバーフロー防御)。この死の海に、我が王国の物理法則を強制的にアロケートする!」
アルスとロザリアの共鳴した魔力が、リヴァイアサンの艦首から、青白い「氷のレール」となって、実体のない死の海へと爆発的に突き刺さっていった。
接触した混沌の波は一瞬にして硬質な氷の結晶、そして黒鋼のレールへと相転移を遂げ、リヴァイアサンは完全な物理的足場を得て、時速数百キロの猛烈なスピードで加速を始めた。
しかし、新秩序の侵入を世界の防衛機能が黙って見過ごすはずはなかった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
前方の「未定義領域」から、ノイズとバグコードがねじれ合い、巨大な人型とも獣ともつかない異形の怪物――『バッファ・オーバーフロー(領域侵食の獣)』がその姿を現した。それは、確保されたメモリの隙間から溢れ出たバグデータが物理的な破壊衝動を持って実体化した、外洋の「最初の洗礼」だった。
「キィィィィン――!!」
怪物の叫びと共に、リヴァイアサンの前方のレールがノイズによって次々と「未初期化」され、崩壊していく。
「面白い。バグの侵食速度と、こちらのデバッグ速度……どちらが上か、計算を始めよう」
アルスは不敵に微笑むと、ロザリアの腰を強く引き寄せ、彼女を胸に抱きしめたまま、【掌握の刻印】をその怪物へと向けた。
「ロザリア、一瞬でコンパイルするぞ」
「ええ、アルス様。私の氷で、あの目障りなバグを概念ごと凍らせて差し上げますわ!」
ロザリアはアルスの胸元で、その美しい瞳を苛烈な愛の光で燃え上がらせた。二人の繋いだ手から放たれたのは、世界のいかなる未定義データをも一瞬で「消去」する、絶対零度の極光。
新しき世界の王と女王による、他大陸へと続く「第一のデバッグ戦」が、いま極洋の混沌の中で華々しく幕を開けたのである。




