第68話:虚無の参照(ヌル・ポインタ)と、実存の証明(ノット・ヌル)
無限回帰という歴史の忘却プログラムを、ロザリアの魂のディープ・キャッシュによって打ち破った王国軍。超弩級列車『ガルガンチュア』は、第六の楔たる黒鋼のレールを背後に従え、ついに『世界の墓標』の第七のレイヤーへと突き進んでいた。
しかし、第七層に進入した瞬間、車窓の景色はこれまでの「灰色」や「抽象」すらも超越した、完全な「真白」へと変貌した。
それは光に満ちた世界ではない。空も、大地も、壁も、距離も存在しない。ただ物質の「存在情報」そのものが綺麗さっぱり消去された、底知れぬ「虚無」の空間だった。
「お、おい王子! レールが出力されねぇ! レールが消えたんじゃねぇんだ……敷設装置のログを見ると、最初から『レールなんていう物質はこの世に存在しない』ってエラーを吐き出し続けてやがる!」
操車室のバルドが、狂ったように計器を叩きながら悲鳴を上げた。
異変は列車全体、そして乗員たちの肉体にも容赦なく伝播していた。
「殿下、身体の感覚が……消失していきます」
戦略室のガイウスが、自身の黒鋼の籠手を凝視しながら、掠れた声を出した。彼の腕は血を流しているわけでも、結晶化しているわけでもない。ただ、そこに「腕がある」という世界の基本情報が剥ぎ取られ、背景の真白な虚無へと透過し始めていた。
「あはは! これ凄すぎるよ、アルス!」
ルナが自身のメスを見つめながら、狂気的な笑声を上げる。
「ボクの医療魔術のカルテ(データベース)から、人間の『心臓』や『肺』の項目がどんどん削除されていってる! 痛くも痒くもないのに、ボクたちは今、存在そのものが『空っぽ(Null)』になろうとしてるんだね!」
中央演算室のシートで、アルスは右手の【掌握の刻印】をかざしたが、その手元からは青白い数式すら展開されなかった。彼の超人的な頭脳は、この領域が世界システムの最も致命的なバグによって支配されていることを察知していた。
「……存在しない領域の参照。『ヌルポインタ例外(Null Pointer Exception)』だな」
世界の墓標の核心が近づいたことで、世界を構成するオブジェクトの根音データが破損し、すべてが「Null(空)」になっているのだ。アルスがこの空間を認識し、デバッグしようと脳内の演算スレッドを伸ばした瞬間――「存在しないデータ(Null)」を無理やり処理しようとした彼の頭脳は、深刻なシステム例外を起こし、視界が真っ黒なノイズで埋め尽くされた。
「処理対象が……存在しない。脳が、致命的なエラー(ハングアップ)を……起こす。私の、意識の接続が、拒絶される……」
脳細胞が急激にシャットダウンの方向へ向かい、アルスの銀色の瞳から完全に光が失われかけた、その絶対の死角。
「――存在しますわ、アルス様! 世界のすべてが空っぽになろうとも、ここに貴方を狂おしいほどに愛する、確かな実体がいますわ!」
冷徹な虚無の白を引き裂いて、ロザリアが正面からアルスの身体に飛び込み、その首筋を強く、折れそうなほど激しく抱きしめた。
彼女の纏う漆黒のドレスが、真白な世界の中で唯一無二の鮮烈な「陰影」となって浮かび上がる。ロザリアは自身の防護グローブを投げ捨て、生身の温かい両手でアルスの頬を包み込み、自身の唇を彼の額へと強く押し当てた。
ロザリアの胸の奥から放たれたのは、絶対零度の冷気ではなく、彼女の命そのものを実体化させた膨大な「存在証明魔力(Not-Null オブジェクト)」だった。
「私を読み込み(ロード)なさい、アルス様! 私の体温、私の心音、私の愛……これらすべては、神のシステムであっても絶対に消去できない『実在するデータ』です! 私という存在を基準にして、世界をもう一度、実体化(インスタンス化)させてください!」
ロザリアの魂の絶叫が、アルスのシャットダウンしかけていた脳細胞に、爆発的な実存の電流を流し込んだ。
世界がどれほど「空(Null)」を突きつけてこようとも、目の前で自分を必死に抱きしめるロザリアという名のオブジェクトだけは、確実に「実在(Not Null)」している。彼女の圧倒的な愛という確定要素が、アルスのハングアップしていた思考回路の例外処理(Try-Catch)を完璧に起動させた。
アルスの瞳に、かつてないほどの絶対論理の狂気と明晰さが蘇る。
「……認識した、ロザリア。お前が『そこにいる』。ならば、この世界のあらゆる虚無に、私が新たな定義(デフォルト値)を強制代入してやろう」
アルスはロザリアの細い腰を左腕で強く抱き寄せ、右手の【掌握の刻印】を真白な虚無へと突き出した。ロザリアの存在証明を核として、彼は虚無の空間の全座標へ「Null安全(Null Safety)」の例外処理コードを高速でオーバーライトしていった。
「システム・例外処理確定。存在を失ったすべてのオブジェクトに、我が王国の新秩序(Order)を初期値として強制代入する!」
アルスとロザリアの共鳴した魔力が、ガルガンチュアから青白い幾何学的な結晶の波となって、真白な世界へと怒涛の勢いで広がっていった。
その光が接触した瞬間、透過しかけていたガイウスの腕は一瞬にして強固な肉体と黒鋼の質量を取り戻し、ルナのデータベースも正常に復旧した。そして、列車の前方に広がっていた真白な虚無は音を立てて崩壊し、そこには世界の墓標の心臓部へと真っ直ぐに続く、黒ひび割れた頑強な大地の底が姿を現した。
「うおおおおお! 出た! 大地が出やがった! 第七の楔、ぶち込んでやるぇぇぇ!!」
バルドが歓喜の雄叫びを上げながら、超弩級レバーを限界まで引き絞った。ガルガンチュアの前面から放たれた黒鋼のレールが、轟音と共に実体を取り戻した大地へと深く突き刺さる。虚無の参照エラーを粉砕し、ウロボロスの鉄路はついに第七のレイヤーを制圧した。
「……はぁ、ふぅ、アルス……様……っ」
自身の存在そのものをリソースとしてアルスの脳を救い出したロザリアは、極限の精神疲労のあまり、上気した肌のままアルスの胸の中で激しく息を切らせていた。
アルスは彼女の華奢な身体を両腕で締め付けるように強く抱きしめると、彼女の耳元で、酷く低く、しかし熱情を孕んだ声で囁いた。
「ロザリア。世界がどれほど無に帰ろうとも、お前という存在がある限り、私の計算式が止まることはない。お前は私の、永遠の実存証明だ」
アルスはロザリアの顎を愛おしそうに持ち上げると、まだ熱い息を漏らす彼女の唇に、自身の唇を深く、生存の契約を交わすように重ね合わせた。
それは、いかなる虚無(Null)をも消し去ることのできない、二人だけの「絶対不変の実体」。
世界の余命があと八年という極限のカウントダウンの中、アルスとロザリアの、理性を超越した愛のシステムは、世界のバグを新秩序へと書き換えながら、ついに『世界の墓標』の最深部――神の処理装置の真前へと到達する。




