第5話:悪女の解放と、次なる盤面
シュヴァルツェイン帝国の十万の軍勢が、飢えによって完全に歩みを止めてから二日が経過した。
アルスは第七補給基地の防衛を軍曹に任せ、ガイウスを含む数名の護衛だけを連れて、黒鋼山脈のさらに奥地へと馬を走らせていた。
「殿下。このような山奥に、一体何があるというのですか」
警戒を怠らずに周囲を見渡すガイウスの問いに、アルスは前を向いたまま答える。
「修道院だ。……表向きはな」
深い霧を抜けた先に、灰色の石造りの巨大な建造物が現れた。
そこは神に祈りを捧げる場所ではない。
エリュシオン王国の政争に敗れた貴族や、王家の不興を買った者たちが秘密裏に幽閉される、事実上の政治犯収容所であった。
看守たちにアルスが偽造した羊皮紙の令状を見せ、薄暗い地下牢へと降りていく。
冷たい水滴が滴る鉄格子の奥に、その「悪女」はいた。
「……あら。これは珍しいお客様ですね」
カビ臭い藁のベッドに腰掛けていたのは、目を奪われるほど美しい令嬢だった。
艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。
だが、その瞳には一切の光がなく、底知れぬ暗い色の感情だけが渦巻いている。
かつて王都の社交界を支配し、そのあまりの怜悧さゆえに危険視され、無実の罪を着せられて没落した公爵家の令嬢。
ロザリアであった。
「第7王子殿下。このような辺境の泥にまみれた地下牢まで、わざわざ私を処刑しにいらしたのですか?」
ロザリアは鉄格子越しに、冷ややかな嘲笑を浮かべる。
「処刑なら羊皮紙の上で指示を出すだけで済む。時間の無駄だ」
アルスは鉄格子の前に立ち、淡々と告げた。
「お前をスカウトしに来た。ここから出してやる」
「……スカウト? 私を、ですか?」
ロザリアの細い眉が微かに動いた。
「ご冗談を。私は国を裏切った大罪人ですよ? それに、私はもう誰も信じません。王家も、正義も、愛も。……あの腐りきった貴族どもに、すべて奪われましたから」
「だからこそ、お前が必要なんだ」
アルスは手元の羊皮紙を広げ、ロザリアに見せた。
そこには、完全に停止した帝国軍の点と、王都を占拠している無数の点が描かれていた。
「帝国軍の胃袋は、俺の兵站システムで完全に破壊した。軍事的な勝利はすでに確定している。だが、王都を奪還した後の『戦後処理』は俺の専門外だ」
物資を管理し、兵士を生かすことはできる。
しかし、国を動かすには、人間の醜い欲望や権力闘争をコントロールする盤面が必要だった。
「俺は誰も信じろとは言っていない。ただ、俺の完璧な『数字』に、お前のその真っ黒な『悪意』を掛け合わせれば、この国を丸ごと喰える。そう言っているんだ」
その瞬間。
ロザリアの暗い瞳の奥に、かつてないほどの強い光が宿った。
正義のためでも、愛のためでもなく。
ただ「合理性」という狂気をもって、自分と一緒に国を喰い潰そうと持ちかける目の前の王子。
「……ふふっ。あははははっ!」
ロザリアは腹を抱え、冷たい地下牢に響き渡る声で笑った。
それは背筋が凍るほど美しく、そして残酷な笑みだった。
「いいでしょう。殿下のその狂気的な合理性……私の復讐に、存分に利用させていただきますわ」
ロザリアが鉄格子越しに白い手を差し出す。
アルスは迷うことなく、その手を取った。
「ああ。好きにしろ。ただし、飯の時間は守れよ」
「ええ、もちろん。我が君」
兵站を支配する冷徹な王子と、人の心を操る悪女。
物理と心理の両面から国を支配する、最恐の共犯関係が結ばれた。
エリュシオン王都を奪還するための本当の戦争が、ここから始まる。




