第4話:兵站破壊と、飢えたる黒鋼の軍
鉄門関から南へ数十セル。
黒鋼山脈の縫い目のような細い山道を、シュヴァルツェイン帝国の長大な補給部隊が進んでいた。
「急げ! 前線の本隊は王国の十万をすり潰し、勢いに乗っているぞ!」
「それにしても、王国も落ちたものだな。十万の大軍が、あんなにあっさりと崩れるとは」
ぬかるんだ道に悪態をつきながら、帝国の輸送兵たちが下卑た笑いを交わす。
「まあそういうな。我らシュヴァルツェインの軍が強すぎただけだ。それより、王都を落とした後は、エリュシオンの女どもは好きにしてもいいんだよな?」
「ああ、もちろんだ。肥え太った貴族の富も、女も、すべて我ら勝者のものだ。……だが、ちゃんと後始末はしておけよ?」
「分かっているさ。王都での戦勝祝いが待ち遠しいぜ」
彼らの顔には、大国を打ち破ったという絶対の驕りがあった。
無理もない。無敵と謳われた本隊は、今や王都に向かって無人の野を行くがごとく進撃しているのだ。
この後方に、敵の残党などいるはずがない。
その油断と欲望こそが、アルスの羊皮紙の上で完全に計算された「致命的な隙」だった。
「――合図だ。掛かれッ!」
谷間に、地の底から響くような咆哮が轟いた。
斜面の死角から突如として現れたのは、泥ひとつついていない軽装の騎馬隊。
その先頭を駆けるのは、黒鈍色の剛剣を構えた猛将ガイウスだった。
「エリュシオンの敗残兵だと!? なぜこんな場所に!」
帝国兵たちが慌てて槍を構えるが、遅い。
十分な休息と温かい食事で完全に体力を回復したガイウスの突撃は、飢えと疲労を引きずっていた昨日までの彼とは全くの別物だった。
「どけェッ!!」
ガイウスの一振りで、重装歩兵の強固な盾が紙くずのように弾け飛ぶ。
だが、彼らは帝国兵を深追いしなかった。
ガイウスの狙いは、下劣な兵士の命ではない。
「殿下の命に従え! 狙うは食糧の馬車のみ! 全て焼き払え!」
騎馬隊が次々と松明を投げ込み、油を撒く。
乾燥した小麦や、貴重な干し肉を積んだ馬車が、次々と紅蓮の炎に包まれていく。
「やめろ! それは全軍の命綱だぞ!」
絶叫する帝国兵たちを尻目に、ガイウスは冷酷に炎の壁を作り上げていく。
彼らの動きには一切の迷いがなかった。
出撃前、アルスの魔法によって、敵の配置、護衛の数、逃走経路に至るまで、全てが完璧な盤面として共有されていたからだ。
「仕事は終わりだ! 敵の増援が来る前に退くぞ!」
風のように現れ、炎だけを残して去っていくエリュシオンの騎馬隊。
残されたのは、欲望の代わりに手に入れた黒こげの食糧と、絶望に暮れる輸送兵たちだけだった。
◆
その数時間後。
さらに南へと進軍を続けていたシュヴァルツェイン帝国軍の本隊に、信じがたい報告がもたらされた。
「後方の補給部隊が襲撃されました! 食糧を積んだ馬車は全焼! 生き残った輸送兵の証言によれば、襲撃者はエリュシオンの猛将ガイウスと、その直属の部隊とのことです!」
報告を受けた帝国の将軍は、言葉を失った。
「馬鹿な……! ガイウスの部隊は昨日の夜襲で完全に壊滅したはずだ! なぜ無傷の部隊を率いて、我々の背後に回り込める!」
将軍の顔から、戦勝の余裕が完全に消え失せた。
シュヴァルツェイン軍十万。
屈強な兵士たちと、黒鋼の重装甲。
真正面からのぶつかり合いならば、大陸のどの軍隊にも負けない絶対の自信があった。
だが、どれほど強大な軍隊であろうと、霞を食って戦うことはできない。
後方からの補給を絶たれた今、彼らが抱える「十万」という数は、圧倒的な力から一転して「一日に数万食を消費する巨大な胃袋」という最悪の爆弾へと変わった。
「……進軍を、停止しろ」
将軍が屈辱に顔を歪めながら命じる。
「全軍に待機を命じろ。……飯が届くまで、一歩も動くな」
無敵を誇ったシュヴァルツェイン帝国の進撃が、完全に沈黙した瞬間だった。
遥か後方の第七補給基地で。
アルス・ヴァン・エリュシオンは羊皮紙の上で完全に停止した敵軍の「光の点」を見つめながら、静かに次の指示を書き込んでいた。
剣を交えることなく、敵の胃袋を破壊して十万の軍を殺す。
これこそが、最弱の王子が操る最強の戦術――「兵站破壊」であった。




