第25話:五分間の死線と、極限の演算処理
――ギャアアアアアアッ!!!
変異した赤黒い毒霧の中で、毒沼のヒュドラが狂乱の咆哮を上げる。
木々をなぎ倒し、野営地の隔離テントを蹂躙しようと迫る巨大な暴力。
それを迎え撃つエリュシオン軍の最前線は、かつてないほどの異様な光景に包まれていた。
「第一小隊、戦闘開始から四分三十秒経過! フィルターの限界が来るぞ!」
「第二小隊、前へ! 盾を構えろ! 第一小隊は直ちに後退し、フィルターを交換しろ!」
激しい金属音と怒号が飛び交う中、兵士たちは文字通り「秒単位」で前線と後方を往復していた。
防毒マスクの耐久時間は、わずか五分。
通常の軍隊であれば、戦闘中に全員の制限時間を管理し、乱戦の中で交代を行うなど絶対に不可能だ。必ず誰かが逃げ遅れ、毒を吸って死ぬ。
だが、エリュシオン軍の背後には、絶対的な「中央処理装置」が存在していた。
「第三小隊、四番機から十二番機の兵士、フィルター残量三十秒。……遅い、今すぐ下がれ。第四小隊、カバーに入れ」
陣幕の奥。
アルスは右手の【掌握の刻印】から空中に展開された、数万の光の点を睨みつけ、冷徹な声で指示を飛ばし続けていた。
「第五小隊、槍の損耗率が上がっている。新品の槍ごと前線へ出ろ。……ルナのテントへ向かう風向きが変わったな。第六小隊、右翼へ展開し、ヒュドラの毒血の飛沫を盾で完全に遮断しろ」
誰が、いつ限界を迎えるのか。
そのすべての「数字」を、アルスはたった一人で、リアルタイムで完全に把握し、指示を出していたのである。
最前線でヒュドラと切り結ぶ猛将ガイウスは、マスクの中で荒い息を吐きながら、アルスの無機質な指示に従って大剣を振るっていた。
「四分五十秒! ガイウス、右へ飛べ!」
「オォォォッ!!」
アルスの指示通りにガイウスが跳躍した直後、彼が立っていた場所にヒュドラの強酸のブレスが降り注いだ。
回避と同時に後衛部隊と入れ替わり、ガイウスは後方で新しいフィルターをカチャリと装着する。
(……信じられん。三万の兵の動きを、殿下はたった一人で完璧に制御しておられる……っ!)
前線の兵士たちは、ただアルスの声に従って「前進」と「後退」という作業を繰り返すだけでよかった。
思考を放棄し、歯車になること。それこそが、五分間という絶望的なデッドラインを生き残る唯一の手段だったのだ。
「ヒュドラの疲労度、三パーセント上昇。だが、こちらのフィルター在庫の消費速度は予測値を上回っている」
アルスは羊皮紙に数字を書き込みながら、チッと舌打ちをした。
「ネリアの輸送部隊の到着まで、あと二時間。ルナの特効薬完成まで、あと五時間……。在庫が、もたんぞ」
限界を超えた過密ローテーション。
兵士たちの体力ではなく、物理的な「フィルターの予備」が尽きようとしていた。




