第24話:隔離病棟の野営地と、狂医の真骨頂
「……前線の負傷者、四百二十名。死者こそ出ていませんが、全員が重度の呼吸器不全で戦闘不能です!」
野営地の中央に急造された【隔離医療テント】で、ガイウスが沈痛な面持ちで報告する。
先ほどまでの「風呂に入ってくつろぐピクニック」のような空気は完全に消え去り、テント内は兵士たちの苦しげな呻き声に支配されていた。
アルスは【掌握の刻印】のインベントリを展開し、赤字で点滅する『医療物資』の項目を見つめていた。
「ルナ。状況を説明しろ」
解剖台の前で、血を吐いた兵士から採取した『赤黒い毒霧のサンプル』を解析していたルナが、振り返った。
その顔には焦燥……ではなく、狂気的なまでの「探求の歓喜」が浮かんでいた。
「あははっ! すごい、すごいよこれ! ヒュドラの血に含まれる酵素が触媒になって、森の毒が『超浸透性の微粒子』に突然変異してるんだ! アタシの作った炭フィルターの目を、いとも簡単にすり抜けてきやがる!」
「感心している場合か。現在の防毒マスクの耐久限界時間は?」
「もって五分だね。五分ごとにフィルターを交換しなきゃ、死ぬ」
五分。その言葉に、ガイウスとロザリアが息を呑んだ。
「一時間の戦闘を維持するために、一人あたり十二個のフィルターが必要になる。三万の軍勢となれば、一回の戦闘で三十六万個だ」
アルスは極めて事務的に計算を弾き出した。
「物理的に不可能だ。後方からの輸送の限界速度を完全に超過している。……つまり、今の我が軍は『ヒュドラを倒すための兵站』が崩壊した状態にある」
「どうしますの、殿下。一度森の外へ撤退しますか?」
ロザリアの問いに、アルスは首を横に振った。
「退けば、ヒュドラは傷を癒やし、さらに毒を撒き散らす。被害が王都の物流網にまで拡大すれば、経済的損失は計り知れない」
アルスはルナの前に立ち、その三白眼を真っ向から見据えた。
「ルナ。この変異毒を完全に遮断する『新型フィルター』の開発に、どれだけの時間がかかる?」
「……フフッ。成分の解析は終わってる。中和に必要な『白蛇草』の抽出液をフィルターに定着させれば、耐久時間は三時間に跳ね上がるよ」
ルナは血まみれの手で白衣を拭い、凶悪な笑みを浮かべた。
「でも、野戦の簡易機材じゃ抽出に時間がかかる。最低でも『十時間』は欲しいね。その間、ヒュドラがこの隔離テントを襲ってこない保証があるなら、やってあげるよ」
「……十時間」
陣幕の外では、ヒュドラの咆哮が再び近づいてきている。
まともな軍隊であれば、毒に侵されながら十時間も魔獣の猛攻を耐え凌ぐことなど不可能だ。
「ガイウス、ロザリア、ネリア。……盤面を強制アップデートするぞ」
アルスの灰色の瞳に、冷酷な決意が宿った。
「ネリア! 後方の輸送部隊に指示を出せ。食糧と武器の輸送を一時停止し、全馬車に『白蛇草』だけを積んで全力で走らせろ!」
「了解、マイ・ロード! 馬を潰してでも持ってくるよ!」
「ガイウス! 残存兵力を三つの部隊に分けろ! 五分間隔の超過密ローテーションで前線を維持する。ヒュドラの足を一本たりともこの隔離テントに入れさせるな!」
「はっ! この命に代えましても!」
アルスは最後に、ビーカーと薬品に囲まれたルナに向き直った。
「お前は今、我が軍における最重要の『コアプロセッサー』だ。俺が十時間の安全を確保してやる。……絶対にバグるなよ、狂医」
「あはははっ! 言われなくても、最高傑作を仕上げてやるよ、効率の悪魔!」
極限の毒霧の中で始まった、絶望的な防衛戦と新薬開発。
人間の「数字とシステム」が、理不尽な突然変異を乗り越えられるかどうかの、命を懸けた徹夜のデバッグ作業が幕を開けた。




