第23話:想定外の変異毒と、溶け出す防壁
――ギャアアアアアアッ!!!
夜の静寂を引き裂くような咆哮と共に、ついに『それ』が姿を現した。
三つの鎌首をもたげ、全身から紫色の猛毒の粘液を滴らせる体長十五メートルの巨大魔獣。毒沼のヒュドラだ。
木々をなぎ倒し、エリュシオン軍の野営地を踏み潰そうと巨大な顎を開く。
しかし、その圧倒的な暴力を前にしても、規格化された軍隊に一切のパニックは起きなかった。
「魔獣の突進が来るぞ! 盾兵、前へ!」
ガイウスの号令で、最前列の兵士たちが分厚い大盾を構える。
ヒュドラが三つの口から致死量の『毒のブレス』を一斉に吐き出した。酸の雨のように降り注ぐ猛毒。
――ジュワァァァァッ!!
激しい蒸気が森に響くが、ルナが開発した『対腐食コーティング盾』は、見事にその酸を弾き返した。
「よし! 毒は通じないぞ! 槍兵、一斉突きッ!」
盾の隙間から、無数の長槍がヒュドラの巨体へと突き刺さる。
魔獣が苦痛の悲鳴を上げたその隙を突き、ガイウスが跳躍して黒鈍色の大剣を振り下ろした。
「オォォォォッ!!」
ヒュドラの右の首が、硬い鱗ごと見事に断ち割られる。
傷口から、致死性の猛毒の血が滝のように噴き出し、周囲の兵士たちに降り注いだ。
「毒血を被った! 第一小隊、マニュアル通り後退! フィルター交換とアンプル摂取!」
兵士たちは慌てることなく後方へ下がり、第二小隊と入れ替わろうとした。
――だが、異変はその『数秒後』に起きた。
『ピーッ! ピーッ! ピーッ!!』
突如として、後退した第一小隊の兵士たちのマスクから、けたたましい警告音が鳴り響いた。
ルナが組み込んだ「フィルターの限界を知らせる魔力センサー」だ。一時間はもつはずのフィルターが、わずか数十秒で限界値を突破したのだ。
「な、なんだ!? 息が……ッ!」
「ぐあぁぁっ! 肺が、焼けるように痛いッ!」
完璧なローテーションを誇っていた第一小隊の兵士数十名が、突如として血を吐き、喉を掻きむしりながら膝から崩れ落ちた。
「どうした!? なにが起きた!」
ガイウスが叫ぶが、異変は前線の第二小隊にも連鎖し始めていた。
ヒュドラの断ち切られた首から噴き出す血が、森の毒霧と混ざり合い、異常な速度で「赤黒い霧」へと変色していく。
「……退けッ!! 全軍、直ちに前線から三十メートル後退しろ!!」
陣幕の奥から、アルスの鋭い怒声が響き渡った。
彼は右手の【掌握の刻印】に表示された、凄まじい勢いで低下していく兵士たちの『HP(生命力)数値』を睨みつけていた。
「殿下!? しかし、ここで退けば――」
「ヒュドラの血が、空気中の毒素を『変異』させたんだ! 今のフィルター規格では防ぎきれない!」
アルスの判断は冷徹かつ最速だった。
「後衛部隊、火矢による弾幕展開! 魔獣の足止めだけを行え! 倒さなくていい、時間を稼げ!」
無数の火矢が放たれ、炎を嫌がったヒュドラが一時的に後退する。
その隙に、ガイウスたちは血を吐いて倒れた仲間たちを担ぎ上げ、野営地の奥へと決死の撤退を行った。
完璧だった絶対防壁が、未知のウイルスの前に初めて突破された瞬間だった。




