第22話:死の森のピクニック
かつては豊かな資源をもたらしていた大森林は、今や禍々しい紫色の毒霧にすっぽりと覆われ、近づく鳥や獣の命を無差別に奪う「死の森」と化していた。
その森の深奥、邪神を祀る石造りの祭壇で。
黒いローブを纏った教団の司祭は、水晶玉に映る森の入り口の映像を見て、下劣な笑い声を上げていた。
「ヒヒヒッ。来たぞ、エリュシオンの愚かな軍隊が。南部で我らの同胞を打ち破ったとて、この絶対の『毒の結界』の前では為す術もあるまい」
司祭の目には、紫色の霧を前に立ち尽くす数万の兵士たちの姿が映っていた。
しかし、次の瞬間。司祭は水晶玉を覗き込み、怪訝に眉をひそめた。
「……ん? 奴ら、顔に妙なものを着けているな。なんだあれは」
水晶玉に映る兵士たちは、全員が顔の下半分を「黒い革製の不気味なマスク」で覆っていた。
まるで顔のない化け物の集団のような、異様な光景。
先頭に立つ巨漢――ガイウスが、剛剣を肩に担いだまま右手を振り上げる。
「全軍、防毒マスクの密閉確認! これより死の森へ侵攻する!」
ガイウスの号令と共に、三万の軍勢が一切の躊躇なく、猛毒の霧の中へと足を踏み入れた。
「馬鹿め! いくら顔を布で覆おうと、我らが教団の呪詛が込められた毒霧は防げん! 肺を溶かし、血を吐いて苦しみ抜くがいい!」
司祭は水晶玉の前で歓喜の声を上げた。
数分後には、森の入り口が兵士たちの死体の山で埋め尽くされるはずだった。
――十分経過。
――二十分経過。
「……な、ぜだ?」
司祭の顔から、笑みが完全に消え去った。
水晶玉に映るエリュシオン軍の兵士たちは、誰も血を吐いて倒れないのだ。
それどころか、整然とした隊列を崩すことなく、まるで少し霧が濃いだけの秋の森を散歩するかのように、淡々と歩みを進めてくる。
「ば、馬鹿な! なぜ肉が腐らない!? 息苦しくないのか!」
司祭には理解できなかった。
彼らの装備しているマスクの内部で、ルナが開発した中和フィルターが、致死量の毒をすべて「ただの綺麗な空気」に変換しているなどとは。
さらに一時間が経過した頃。
エリュシオン軍の隊列で、奇妙な合図が鳴らされた。
「一時間経過! 第一小隊、フィルター交換及びアンプル摂取!」
前線を歩いていた兵士たちが、歩きながら腰のポーチを開ける。
そして、古いフィルターをカチャリと外し、後方の補給班から手渡された「新品のフィルター」を瞬時に取り付ける。
同時に、小さなガラス管の口を噛み割り、中の解毒剤を飲み干した。
「……ぷはぁっ! ルナ先生の薬、相変わらずクソ不味いな!」
「文句言うな、内臓が溶けるよりマシだろ! さっさと前進するぞ!」
兵士たちは軽口を叩き合いながら、再び何事もなかったかのように行軍を再開したのだ。
「ひ、ひぃぃ……ッ!」
司祭は恐怖で後ずさった。
魔法による理不尽な死の呪いが、人間の「規格化された装備」と「時間単位の完璧な補給」によって、完全に無力化されていた。
「な、舐めるなァッ! 毒の霧が通じなくとも、この森には我らが教団の最高傑作が眠っているのだ! 目覚めよ、毒沼のヒュドラ!」
司祭が血走った目で祭壇に魔力を注ぎ込む。
ズズン、ズズンと、森の奥深くから地響きが鳴り始めた。
毒の霧によって兵站線を断ち切るという教団の目論見は、アルスの冷徹なシステムによって完全に打ち砕かれた。
焦燥に駆られた教団が解き放つ巨大な「物理的暴力」に対し、絶対に止まらない歯車の軍隊が、いよいよその牙を剥こうとしていた。




