第20話:狂気と合理の解剖台
王都エリュシオンの地下深く、下水道の悪臭が漂うスラムの最下層。
陽の光すら届かないその場所に、異端の天才医師が潜伏する闇診療所はあった。
「……ひどい臭いですわね。香水が台無しですわ」
泥水を避けながら歩くロザリアが顔をしかめる。
護衛のガイウスも、周囲から向けられるスラムの住人たちの殺気立った視線に、いつでも大剣を抜けるよう警戒を怠らない。
しかし、アルスは周囲の環境など一切気にする様子もなく、迷うことなく診療所の腐りかけた木の扉を蹴り開けた。
「……誰だい、ノックもせずに。アタシは今、最高の検体の解剖で忙しいんだ。死にたくなきゃさっさと出ていきな」
薄暗い室内。
血とホルマリンの臭いが充満する部屋の中央で、白衣を赤黒く汚した小柄な少女が、メスを片手に振り返った。
ボサボサの銀髪に、睡眠不足を思わせる目の下の深い隈。
彼女こそが、医師ギルドから「悪魔の申し子」と恐れられ追放された天才、ルナであった。
「お前がルナだな。少しお前の『脳』を借りに来た」
アルスはルナの手元――解剖台の上に置かれた、奇妙な紫色の斑点を持つネズミの死骸を一瞥した。
「……そのネズミの死骸。西の森から流れてきた川の水を飲んで死んだ個体か」
「ほう?」
ルナの三白眼が、ギラリと興味深げな光を放った。
「ただの貴族のお坊ちゃんかと思ったら、観察眼はあるみたいだね。そうだよ、このネズミの内臓は、未知の猛毒でドロドロに溶かされてる。……で? アタシの脳みそを借りたいって? あんた、アタシが『生きた人間を解剖した』って噂されてる死体泥棒だって知ってて来たのかい?」
「そんな些末な噂はどうでもいい」
アルスはルナの背後にある、壁一面に書き殴られた黒板の数式と、乱雑に積まれた研究ノートに目を向けた。
「タンパク質を分解する毒素の構造解析と、それを中和するアルカリ性化合物の合成式……。方向性は完璧だが、数式の最後に『資金不足による素材調達不可』という最大のボトルネックが存在しているな」
「……ッ!」
ルナの顔色が変わった。
一目見ただけで、自分が何ヶ月もかけて導き出した毒物解析の結論を理解されたからだ。
「あんた、一体何者だ……?」
「俺はエリュシオン王国第7王子、アルス・ヴァン・エリュシオン。俺の軍隊に組み込むための『衛生管理のパーツ』として、お前を買い上げに来た」
アルスは懐から、ネリアの商業連盟から引き出した『白紙の小切手』を取り出し、解剖台の上に無造作に放り投げた。
「西の森の毒を中和し、兵士が安全に行軍できる『防毒装備』と『解毒剤』を開発しろ。その代わり、お前の研究に対する一切の倫理的制約を撤廃する。王立病院の最新機材も、大陸中のあらゆる高価な薬草も、俺の権限と資金で無制限に提供してやる」
「む、無制限……?」
「そうだ。お前がどんな狂った実験をしようが、どれだけ予算を食いつぶそうが文句は言わん。必要なのは『我が軍の兵士を一人も毒で死なせない』という結果だけだ」
ルナの持つ狂気的な探求心と、それを阻む資金・倫理という壁。
アルスは、彼女が最も欲している「無限の研究環境」を提示したのだ。
「……あ、あはははっ! 最高だ! あんた、王子様っていうより効率の悪魔みたいだね!」
ルナは血まみれのメスを放り投げ、白紙の小切手をひったくるように掴んだ。
「いいよ、乗った! アタシの脳みそ、全部あんたの軍隊にくれてやる! その代わり、西の森の毒だけじゃない……教団のバケモノの死体も、アタシの解剖台にたっぷり提供してもらうからね!」
悪魔的な合理主義者と、狂気の天才軍医。
二人の異端者が手を結んだ瞬間、エリュシオン軍は単なる武装集団から、いかなる過酷な環境にも適応する「絶対生存の兵站軍」へと、劇的な進化を遂げることとなる。




