第19話:西からの死風と、溶け落ちる盤面
南部平野の浄化作戦は、アルスの完璧な計算通りに進んでいた。
兵士たちが寸分の狂いもなく埋設した「塩、鉄鉱石、浄化の魔石」の化学的・魔術的反応により、どす黒く腐敗していた大地は、目に見える速度で本来の茶色い土へと還元されつつあった。
「……南部エリアの土壌マナ数値、回復傾向に転じました。これで来年の春には、再び小麦の種が蒔けるはずです」
野戦用の司令陣幕で、ロザリアが安堵の息を吐きながら報告する。
しかし、陣幕の中央で巨大なアウレリア大陸の地図を見下ろしていたアルスの顔には、微塵の喜びもなかった。
彼は右手の掌――青白く発光する【掌握の刻印】を、忌々しそうに睨みつけていたのだ。
「喜ぶのは早いぞ、ロザリア。盤面の『南』の穴を塞いだ途端、今度は『西』に致命的なバグが発生した」
アルスが地図の西側、王都の資源を支える「大森林地帯」を指差す。
「三時間前から、西の森から王都へ向かっていた輸送馬車のデータが『消失』している。盗賊に奪われたわけではない。積荷の木材も、護衛の兵士の武器も、運んでいた馬の肉体そのものも……【掌握の刻印】のインベントリから、文字通り『消滅』した」
「消滅……? そんな馬鹿な。ただの森の中で、一体何が起きているのです?」
ロザリアが眉をひそめたその時、陣幕の外からガイウスが血相を変えて飛び込んできた。
「殿下! 西の森の偵察に向かわせていた斥候部隊から、死に物狂いの伝令が届きました!」
「報告しろ」
「はっ! 西の大森林全体が……突如として『紫色の毒霧』に包まれたとのこと! 霧は異常な腐食性を持ち、吸い込めば数分で肺が溶け、鉄の鎧すらもドロドロの錆に変わるそうです!」
ガイウスの報告に、陣幕内の空気が凍りついた。
邪神教団の狙いは明確だった。
南部で「食糧」を腐らせた彼らは、今度は西部で「木材と輸送ルート」を物理的に溶かしに来たのだ。
どれほど完璧に規格化された武器を持っていようと、どれほど潤沢な資金があろうと、人間が呼吸をしなければ生きられない生物である以上、「空気そのものが毒」という環境では戦うことすらできない。
「殿下! ならば私が少数精鋭の決死隊を率い、息を止めて森の奥へ突入します! 霧を発生させている教団の拠点を、強引に叩き潰してまいります!」
ガイウスが悲壮な覚悟で拳を握りしめるが、アルスは冷たく鼻で笑った。
「却下だ、脳筋。人間の最大肺活量と無酸素運動での筋力低下率を舐めるな。森の奥にたどり着く前に酸素欠乏で倒れるか、皮膚から毒を吸収されてお前のその筋肉がドロドロのスープに変わるだけだ」
「くっ……! では、どうすれば! このままでは西からの物流が完全に断たれ、いずれ毒霧が王都にまで到達してしまいます!」
「力押しが通じないなら、システムで対抗するしかない」
アルスは羊皮紙に新たな計算式を猛烈な勢いで書き出し始めた。
「戦場における『医療と衛生』だ。我が軍には、傷を治す魔法使いはいても、毒の成分を化学的に分解し、軍隊全体の健康状態を管理する『システムとしての医療』が欠けている」
アルスは羽ペンを置き、ロザリアを見据えた。
「ロザリア。王都の裏社会に、倫理観の欠如した優秀な医者はいないか? 毒や病原菌の構造を理解し、俺の『数字』についてこれるだけの狂気を持ったやつだ。高潔な命の恩人などいらん」
「……倫理観が欠如した、狂気の医者。ふふっ、一人だけ心当たりがありますわ」
ロザリアは扇で口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべた。
「『死体泥棒の魔女』と呼ばれ、医師ギルドを追放された異端児が。……ただ、少しばかり気性が荒いですけれど」
「構わん。役に立つ歯車なら、金と権力で無理やり盤面に組み込むまでだ」
最強の兵站軍に欠けていた最後のピース「衛生管理」。
それを手に入れるため、アルスたちは王都の最も暗い暗部へと足を踏み入れる。




