第2話:泥濘の鉄門関と、猛将の敗走
灰色の空が割れ、冷たい豪雨が容赦なく降り注いでいた。
鉄門関を越えた先の渓谷。
王国軍十万の勇壮な進軍は、完全に停止していた。
「押せ! 馬に鞭を入れろ! 車輪が沈んでいくぞ!」
「駄目です、泥が深すぎます! 馬の足が限界です!」
ぬかるんだ未舗装の道で、旧式の重い荷馬車は次々と立ち往生していた。
無理に引かせようとした荷車が横転し、泥水の中に貴重な小麦や干し肉が散乱していく。
季節外れの豪雨。
あの第七補給基地で、第7王子アルスが予言した通りの光景が広がっていた。
「飯はまだか! もう丸一日、何も口にしていないぞ!」
「火が点かないんだ! 薪も毛布も、全部後ろの馬車に取り残されてる!」
最前線の部隊には、当然ながら食糧は届いていなかった。
雨と寒さ、そして極限の飢え。
十万という大軍の士気は、敵と刃を交える前に、泥の底へと沈み切っていた。
そこへ、彼らにとって最悪の事態が訪れた。
「――敵襲ッ! 帝国軍の夜襲だァァッ!!」
雨音を切り裂き、黒鋼の鎧を纏った『シュヴァルツェン帝国』の精鋭たちが、谷の両側から雪崩を打って突撃してきた。
痩せた寒冷地に住む彼らにとって、悪天候など日常茶飯事だ。
泥濘にはまって身動きの取れない王国軍の騎士たちは、彼らにとってただの的でしかなかった。
「ひぃぃっ! さ、下がれ! 防衛陣形など組めるか!」
大軍であるが故に、一度パニックに陥った軍隊の統制は二度と戻らない。
先陣を切っていたはずの第1王子は、早々に全軍の指揮を放棄し、少数の近衛兵だけを連れて南へと逃亡を始めていた。
「……クソが。どいつもこいつも、逃げ足だけは一流だな」
阿鼻叫喚の地獄と化した戦場の只中で、悪態をつく男がいた。
長身に無骨な重装甲を纏った青年、ガイウス。
のちにアルスの「右翼」として大陸全土にその名を轟かせることになる猛将である。
「死ねェッ!」
「邪魔だ、鉄くずども!!」
迫り来る帝国兵の槍を躱し、ガイウスは身の丈ほどもある大剣を横薙ぎに振るう。
凄まじい膂力と魔力が込められたその一撃は、重装歩兵を三人もろとも両断し、周囲の敵を震え上がらせた。
だが、彼の奮戦もそこまでだった。
――ガキンッ!!
嫌な音と共に、ガイウスの手の中で大剣が半ばから砕け散った。
粗悪な量産品では、彼の規格外の力に耐えきれなかったのだ。
「ちっ……! これで五本目だぞ。あの無能な補給部隊め、予備の武器くらい前に送っておけ!」
毒づきながら、折れた剣の柄で敵の顔面を殴りつける。
しかし、多勢に無勢。ガイウスの率いていた小隊も、すでに大半が泥の中に沈んでいた。
そして何より、ガイウス自身の限界が近づいていた。
(……腹が、減った)
常人の数倍の魔力と筋力を持つガイウスは、その分、消費するエネルギーも桁違いだった。
丸一日何も食べず、寒さの中で剣を振り回せばどうなるか。
視界が揺れ、膝の力が抜けかける。
「……これまでか」
ガイウスは血と泥を吐き出しながら、後方へと後退を始めた。
もはや戦線は完全に崩壊している。ここで犬死にするわけにはいかない。
敵の追撃を振り切り、死の森を抜け、泥水で喉の渇きを潤しながら、ガイウスは三日三晩、南へ向かって歩き続けた。
(この先にあるのは、第七補給基地か……)
朦朧とする意識の中で、ガイウスは自嘲気味に笑った。
あそこを管理しているのは、剣も握れない「臆病者の帳簿係」と噂される第7王子だ。
どうせ、十万の軍が敗れたと知れば、物資を捨てて我先にと逃げ出しているに違いない。
あの基地に助けなどない。時間稼ぎの壁にすらならないだろう。
それでも、足を進めるしかなかった。
傷は深く、胃袋は空っぽで、折れた剣の柄だけを握りしめながら。
やがて、深い霧と雨の向こうに、第七補給基地の防壁が見えてきた。
ガイウスは、その光景を見て息を呑んだ。
「……な、なんだ、あれは……?」
そこにあったのは、もぬけの殻となった廃墟ではなかった。
寸分の隙もなく配置されたバリケード。
雨を完全に凌ぐよう計算されて張られた巨大な天幕。
そして、泥一つない見張台の上で、冷たい灰色の瞳をしてこちらを見下ろしている、銀髪の青年の姿だった。
「遅かったな、敗残兵」
雨音に負けない、静かで、しかし絶対的な威圧感を持った声が響く。
「お前が来るのは、マップを見て分かっていた。……中に入れ。飯の時間だ」
地獄の底から這い出してきた猛将と、冷徹なる兵站の支配者。
二人の運命が交差した瞬間だった。




