第1話:帳簿の魔法と、終わりの始まり
アウレリア大陸北部、黒鋼山脈の麓に位置する第七補給基地。
最前線である「鉄門関」から数十セル(約数十キロ)後方に位置するこの砦は、およそ戦場に似つかわしくない、奇妙なほどの静謐と秩序に包まれていた。
「……麦の第三コンテナ、搬入完了。次、予備の長剣二百振り、第五倉庫へ移送しろ。動線は青のラインをはみ出すな」
天幕の奥で、第7王子アルス・ヴァン・エリュシオンは、羊皮紙から目を離すことなく淡々と指示を飛ばす。
彼の視線の先にある羊皮紙には、地図と無数の「光る点」が浮かび上がっていた。
【掌握の刻印】。
それが、魔力最底辺であるアルスに発現した唯一の魔法だった。
対象に微小な魔力を刻み込むことで、その現在位置と数量をリアルタイムで遠隔同期する。
ただそれだけの、攻撃力ゼロの「帳簿魔法」。
王族からは「商人の真似事」と嘲笑われ、この辺境へと左遷される理由となった忌み嫌われる力だ。
しかし、この基地においてアルスの力は絶対だった。
「殿下、第四小隊が巡回から戻りました。報告によれば――」
「北西の森に帝国軍の斥候部隊。数は八。すでに第三小隊が迎撃に向かっている。お前たちは休め。厨房に干し肉と豆の熱いスープを用意させてある」
古参の軍曹が報告を終える前に、アルスは羊皮紙上の「点」の動きだけで全てを把握していた。
軍曹は驚く様子もなく、深く頭を下げる。
「ありがたき幸せ。……それにしても、ここは本当に軍の野営地ですかね。いつ見ても、王都の広場より綺麗に片付いている」
「兵站の基本だ。荷の規格を統一し、配置を最適化するだけで、搬入出の時間は十分の一になる。無駄な労働は兵のカロリーを浪費するだけだからな」
アルスの言葉通り、基地内の物資は全て同じ大きさの木箱に収められ、馬車が横付けするだけで一瞬にして積み下ろしが終わるように計算し尽くされていた。
兵士たちは泥にまみれることなく、乾いた靴下を履き、毎日三度の温かい食事を腹一杯に食べている。
前線で剣を振るえないからこそ、アルスは「自分の手の届く範囲の人間」を、徹底した管理システムの庇護下に置いていた。
その時、整然とした基地の空気を引き裂くように、乱暴な馬の蹄の音が響いた。
「出迎えもなしか! 辺境のネズミどもは礼儀も知らんようだな!」
天幕に土足で踏み込んできたのは、煌びやかな鎧を着た本国軍の将校だった。
第一王子直属の使者だ。
彼らはアルスの規格化された木箱を見て「荷ほどきも終わっていないのか」と鼻で笑った。
「第7王子殿下。兄君であられる第1王子からの伝令です。我が軍はこれより、鉄門関を越えて帝国領へ電撃的に進軍します。ここにある物資を全て、明朝までに前線へ運ばれよ」
「……進軍だと?」
アルスは初めて羊皮紙から顔を上げ、灰色の瞳で使者を射抜いた。
「敵の小部隊が後退したから追撃する、というつまらない理由だろうが……却下だ。物資は渡さない。部隊をすぐに鉄門関の防衛ラインまで下げろと伝えろ」
「はっ! 臆病者の殿下には、武功を挙げる兄君の勇姿が恐ろしいと見えますな。これは決定事項です!」
「空を見ろ」
アルスが天幕の外を指差す。
鉛色の重い雲が、北の山脈を覆い始めていた。
「風の匂いが変わった。明日の昼から、この一帯は季節外れの大雨になる。今の旧式な荷馬車で未舗装の道を進めば、泥濘にはまって行軍速度は七割落ちる。前線は三日で飢えるぞ」
「言い訳はよろしい! こちらは十万の大軍、小雨程度で帝国軍など恐るるに足らず!」
聞く耳を持たない使者に、アルスは小さくため息をついた。
これ以上、理解できない愚者に言葉を費やすのは時間の無駄だった。
「……持っていけるだけ持っていけ。ただし、積み込みはそっちでやれ。俺の部下は手伝わせない」
「ふん。はじめからそう言えばいいものを。おい、荷馬車に積めるだけ積め!」
使者たちが乱暴に物資を奪っていくのを、アルスは冷ややかな目で見送った。
「殿下、よろしかったのですか?」
軍曹が忌々しそうに呟く。
アルスは手元の羊皮紙――大雨の中で破滅へ向かうであろう、十万の光の点――を見下ろしながら、淡々と告げた。
「放っておけ。腹が減っては戦はできないという、この世の絶対の『数字』を嫌というほど学ぶことになる」
アルスは新しい羊皮紙を引き寄せ、羽ペンを走らせた。
「軍曹。野戦病院のベッドを増設しろ。それと、遺体安置所の確保と、大量の包帯を準備だ。……三日後、この基地は地獄から逃げ延びてきた者たちで溢れかえることになる」
冷徹な計算に基づくアルスの予言通り。
三日後、王国軍十万は泥の底で完全に崩壊することとなる。




