第15話:掌握の刻印と腐りゆく大地
ヴェネーラ商業連盟、中央交易所の最上階。
ネリアは山積みにされた金貨の海にダイブし、両手で黄金をすくい上げては歓喜の声を上げていた。
「あははははっ! 金だ! これで連盟の船団も物流網も、全部私たちのものだ!」
先物取引の大暴騰を利用した痛快な乗っ取り劇。
エリュシオン王国の空っぽだった国庫は、彼女の強欲な商才によって、たった数日で莫大な黒字へと転換した。これで帝国軍の再侵攻に備える軍資金は十分に確保できたはずだった。
だが、部屋の隅の執務机に座るアルスの表情は、かつてないほど険しかった。
「……おかしい」
アルスは右の掌に刻まれた、微かに青白く発光する幾何学模様――彼の固有能力【掌握の刻印】を見つめていた。
それは、世界中の物資の動きや在庫量を数値化し、リアルタイムで把握・管理できる「神の帳簿」だ。
「どうしたんですの、殿下? まさか計算ミスでも?」
ワイングラスを傾けていたロザリアが、不思議そうに尋ねる。
アルスは手元の羊皮紙に、刻印から読み取った数字を猛烈な勢いで書き出し始めた。
「ネリアが買い占めた連盟の物資データは正常に刻印に統合された。問題は、エリュシオン王国内のデータだ」
アルスが羊皮紙をテーブルの中央に広げる。
そこには、王都から南に広がる広大な穀倉地帯――国で最も肥沃なはずの農地――のステータスが記されていた。
「……土壌の『養分数値』が、三日前から異常な速度で減少している。いや、減少ではない。『マイナス』に反転して、周囲の土地に感染するように広がっているんだ」
「マイナス? 土の養分がマイナスって、どういうことだい?」
ネリアが金貨の山から顔を出し、首を傾げる。
「物理的にあり得ない現象だ。さらに、持ち逃げした貴族どもが南部に溜め込んでいたはずの『小麦の備蓄量』が、昨日から一気にゼロになった」
「ゼロ!? 莫大な量があったはずだろう? 誰かが別の国に運び出したのか?」
「いや、俺の【掌握の刻印】は物流の動きをすべて捉える。運び出された形跡はない。まるで、倉庫の中で麦が『消滅』したか、あるいは『麦ではない何か』に書き換えられたかのように……」
その時だった。
執務室の扉を激しく叩く音が響き、顔面を蒼白にしたガイウスが駆け込んできた。
「殿下! 王都の留守を任せている部隊から、早馬の伝令が届きました! な、南部一帯が……大変なことになっていると!」
「……落ち着いて報告しろ、ガイウス。何が起きた」
アルスの冷静な声に、ガイウスは震える息を整え、信じられない事実を口にした。
「逃げ出した貴族たちが立て籠もっていた南部の城が……全滅しました。帝国軍の仕業ではありません。貴族も、私兵も、農民たちも、全員『干からびたミイラ』になって死んでいたそうです!」
「なんだと……!?」
「さらに、南部の農地一帯から一切の緑が消え……大地が『黒く腐敗』し始めていると! 伝令によれば、黒いローブを着た不気味な連中が、腐った土に謎の儀式を施しているそうです!」
その言葉を聞いた瞬間、ロザリアの扇が手から滑り落ちた。
「黒いローブ……まさか。数百年前に滅びたはずの『邪神教団』……!?」
アルスの灰色の瞳が、鋭く細められた。
【掌握の刻印】が示した異常な数値。消えた備蓄。そして、帝国軍が「飢え」を無視してまで強引に王都を占拠しようとしていた理由。
すべての線が、一本に繋がった。
「なるほど。シュヴァルツェイン帝国軍の背後にも、その教団とやらが糸を引いていたわけか。奴らの狙いは最初から王都の占領ではなく……この国の大地そのものを腐らせ、邪神を呼び覚ますための『苗床』にすることだったんだ」
金庫の金を奪い返したところで、国を支える「大地」が死んでしまえば、兵站は完全に崩壊する。
真の敵は、帝国という人間の軍隊ではなかった。
補給という概念を無視し、命と大地そのものを喰い尽くす『理不尽な神と狂信者たち』。
「……面白い。俺の完璧な帳簿にバグを引き起こすか」
アルスは立ち上がり、ネリアに向かって鋭く命じた。
「ネリア! 手に入れた資金で、今すぐ大陸中から『塩』と『浄化の魔石』、そして『大量の鉄鉱石』を買い占めろ!」
「えっ!? 麦や武器じゃなくて、塩と鉄!?」
「ああ。大地が腐っているなら、土壌を改良する物資が必要だ。それと、王国の兵士たちの装備を根底から見直す。狂信者やバケモノを相手にするなら、今のバラバラな装備では兵站が回らない」
アルスは【掌握の刻印】を強く握りしめた。
「すべての武器、すべての防具の規格を『完全統一』する。ネジ一本から麦の粒に至るまで、徹底的に規格化された『絶対に飢えない、絶対に折れない軍隊』を創り上げるぞ」
王都を奪還し、莫大な資金を手に入れたのは、ただの準備運動に過ぎなかった。
大地を喰らう邪神教団との、国家の存亡を懸けた絶望的な防衛戦。
規格化と兵站管理の極致を目指す、アルスの本当の戦いが今、幕を開けた。




