風を着る
朝になると、昨日のように、レウはその身をもこもことさせていた。
「おはようございます、アダン様」
「おはよう、レウ……」
昨晩のあの姿は幻だったのかと思いながらも、アダンは開口一番に、この国の服を勧めていた。
しかしいくら説得しても、レウは決して故郷の分厚い布地を脱ごうとはしなかった。
「これは、僕の国のしきたりで……。アダン様に対して……失礼になってしまうんです……」
「君はもう、この国の人間になったんだ。確かに、故郷のことを思う気持ちはよくわかる。俺のことを考えてくれるその気持ちは、とても嬉しいよ?だけど……」
「でも……」
「レウ、どうしてなんだい?このままだと、君は暑さで倒れてしまうよ?」
「……その、……肌を見せるのは……。少し、……恥ずかしいんです……」
なおも食い下がるレウに向けて、アダンは冗談めいたような声で口にした。
「じゃあ、少しずつ慣れていこう?大丈夫、何も心配するようなことはない。南の風は、心まで軽くするからね!」
アダンは軽やかに笑い、レウの衣服の留め具を一つ外した。
その一瞬の風の感触に、思わずレウの心は跳ねる。
「あ……」
「……ほら、涼しいだろう?」
「……はい……」
アダンの手はすぐに離れたものの、その温もりはしばらくレウの身からは消えなかった。
その夜、レウは寝台の上で何度も寝返りを打っていた。
それは、この暑さのせいだけではなかった。
昨夜と変わらぬ、アダンの明るい笑み。程よく日に焼た肌と、触れられた指先の感触が未だにその身に残っていたからだ。
故郷では決して感じることのなかったその熱を、今、レウはこの異国の地で、アダンの隣で感じていた。
「寒くはないかい?」
そう言って、アダンが薄布をレウの身へとふわりと掛けた。
何とも言えぬむず痒さを感じて、思わずレウは瞳を閉じたまま口を開く。
「……長年の、習慣のせいでしょうか……。寝る時は、寒さを感じないんです……」
暗闇の中で、くすりとアダンが笑う声が響く。
「そうなんだ!レウって、面白いんだなあ……」
――僕からすれば、アダン様のほうが……。
しかしその夜も、レウは知らずのうちに深い眠りへと落ちていく。
「……寝ちゃったか……」
アダンもまた、ため息を一つこぼしながらレウの黒髪を撫でていた。
***
輿入れから数日の時が流れても、レウは未だ、厚着のままであった。
南国の太陽は容赦なくその身を照らし、時折流れ込む風までもがまるで炎そのものであるかのようにわずかな熱を持っていた。
領主アダンの館では、人々が軽やかな布一枚で機敏に動き回っていた。
その中で、レウだけが唯一、ゆったりとした動作で庭へと歩みを進めていた。
使用人たちは皆、初めは不思議そうにその姿を遠巻きから眺めていたものの、今となっては特段気にも留めるようなことはなかった。
しかしアダンだけは、未だその景色に慣れずにいた。
レウのその姿はまるで、一人だけ冬の季節を纏っているようでもあったのだから。
「……またそんなに着込んで、溶けないか心配だなあ」
庭にあるテラスで、アダンは果物を切りながら汗を流すレウに声を掛けた。
頬を伝う汗を手の甲で拭いながら、レウはいつものように答えてみせた。
「慣れないと……風邪をひいてしまいそうで……」
「なるほど……。こっちは、逆なんだ。汗をためるほうが、危険とも言われているくらいなんだけどなあ」
そう言いながら、レウの口元へと果物を差し出す。
レウはそっと噛り付き、みずみずしさに目を細めた。
今朝も、アダンはレウの衣服の留め具を一つ外していた。
レウは拒むような真似はしなかったものの、未だ流れ落ちる汗は引くような気配がなかった。
しばらくみずみずしい甘さを二人で堪能した後に、アダンがひどく真面目な顔つきをしてこう言った。
「……レウ。明日、服を仕立てに行かないかい?」
その真っ直ぐな声に、思わずレウはアダンを見つめた。
「……服、を……?」
「そう。君に似合う……君だけの、南の服を作ろう!それを婚姻の証だと思って、どうか受け取ってほしい。一緒に、布地から選ぼう」
そのような言葉に、レウはしばし戸惑いの表情を浮かべていた。
「べつに、それを着るかどうかはレウ次第だよ?……俺はただ、レウに服を贈りたいんだ。そんなに難しく考えないで」
いつもの軽い口調で告げられたものの、アダンの真剣な眼差しに、やがてレウは小さく頷いてこう言った。
「……わかりました……」
アダムはいつもの爽やかな笑みを浮かべて、レウの額にキスをした。
レウはただ、頬を赤く染めることしかできずにいた。
翌朝、二人は市場へと出かけていた。
布屋では、陽の光に透けるような薄布がいくつも並び、あたたかな風が吹き抜けるたびにそれらは波のように揺れていた。
アダンは片端からいくつも布を手にしては、何度もレウの肩にかざしてみせる。
「うーん、これも違うなあ……。これなんか、……でも、レウの肌には合わないなあ……」
レウはただ、静かにその場に立つことしかできないでいた。
昨日同様、アダンの目はひどく真剣な光を帯びていた。
「アダン様、これなんてどうです?」
「花嫁さんはほんと、色が白いねえ……」
「美人さんだねえ」
周りを取り囲む店の人々も、領主とその花嫁の姿を微笑ましく見守っては時折笑みを交わしていた。
――僕、こんな所にいてもいいのかな?それに、こんな薄手で外に出て……。
レウの今の姿は、布地が二枚重なっているのみ。
毎朝のアダンの懸命な声掛けによって、婚礼当初よりは大方、その衣服を脱ぎ捨てていた。
しかし未だ、その軽装に慣れずにいた。
風によってひらりと捲れる裾もとに気恥ずかしさを覚えていると、再びアダンの手が肩元にふわりと添えられる。
「レウ、こっちを向いて?そう……。うーん、この色もいいなあ……」
アダンはまるで自らの服を仕立てるかのように、至極楽しそうな笑みを浮かべてレウに似合う生地を丁寧に吟味していた。
そのようなアダンの姿にも、レウはまた何とも言えぬ気恥ずかしさを感じていた。
「アダン様、色違いもありますよ?」
「なるほど、揃いにするのもいいかもしれないな!」
その言葉に、レウの胸がどきりと高鳴る。
――おそろい……。僕と、アダン様が……。
そして、布地を手にするアダンと視線がぶつかる。
「レウ。どうだい?この色。……俺に、似合うと思うかい?」
きらきらとした瞳を向けられて、レウは思わず目を伏せて頷いた。
「……いいと、思います……」
「よし!じゃあ、俺はこの色で……。レウには、この色がいいと思うんだ。……どう?陽を受けると、銀に見えるそうだよ」
手渡された布地に目を向ければ、それはアダンの瞳と同じような輝きを秘めていた。
「とても、綺麗ですね……。でも、少し、透けますね……」
そして布地の先に見える肌の影に、レウはわずかに眉を寄せていく。
そのような言葉を耳にして、アダンは思わず笑っていた。
「レウ、今の時期には、透けるくらいがちょうどいいんだよ。一緒に、風を着て歩こうじゃないか!」
――風を、着る?
レウはその言葉に、思わずくすりと笑ってしまう。
アダンの言葉はいつでも詩的で、レウの心を軽くさせる不思議な力があったのだ。
「……わかりました。僕も……風を、着てみたくなりました……」
「そうだよ、そうこなくっちゃ!」
はにかむレウの姿を目の当たりにして、アダンの胸を熱い風が吹き抜ける。
その熱を移すかのように、アダンは躊躇いもなくレウの頬に唇を寄せた。
「まあ、お熱いこと!」
「アダン様、よかったですねえ!」
「では、よろしく頼むよ!」
「お任せください。また、いつでもいらしてくださいね!」
周囲が囃し立てるなか、アダンはにこやかに笑みを深めてレウの手を引いていく。
レウもまた、顔を赤くしながらも、つられるように笑っていた。
***
数日後。館には、仕立て上がった服が届けられていた。
それを手にして、レウは思わず目を見張る。
薄手の麻布は市場で目にした時とは異なり、室内では淡い水の色をしていた。
しかし、ひとたび陽の光を受ければ、それはたちまち銀の色へと輝き出す。
まるで故郷の雪原を思い出させるようなその色に、レウは思わず胸が苦しくなるのを感じていた。
さらに胸元には華やかな織り模様が施され、袖は短く、裾は風を受けて軽やかに揺れていた。
「よかったら……、着てみないかい?」
そうアダンがぽつりとこぼせば、レウは一瞬躊躇うものの、しかし、小さく頷いて奥の間へと姿を消した。
数分後。
静かな風の音とともに、扉が開いた。
そこに立つレウの姿を見つめて、アダンは息を呑んでいた。
「……アダン様、……どうでしょう……」
レウの白い肌が、陽の光を受けて、ほんのりと輝きを放っているかのように見えていた。
いつもの分厚い布地に隠されたその腕はひどく細く、首筋から鎖骨にかけての線がやけに柔らかであるように感じられる。
北国の人間特有の透き通るような青白さが、南の明るい布とやけに調和していた。
思わず声を失うアダンに向けて、レウは眉を寄せて問いかけた。
「アダン様……。変、でしょうか……」
その声に我に返ったアダンは、強く首を振ってから声を上げた。
「……いいや、似合っているよ!レウ!思っていたより……、ずっと……!」
思わずその身を抱きしめてしまいたい衝動を抑えながら、アダンはレウの手を取ってみせた。
「やっぱり、この生地にして正解だった!レウの魅力が、さらに引き立つようだよ……!」
「そ、そうでしょうか……」
「着心地は?大丈夫そう……?」
「はい……。暑さが少し、……やわらぎました……」
レウは恥ずかしげに俯きながら、アダンの手を見つめていた。
「でも……こんなに肌を見せるのは、やっぱり慣れません……」
「まだ、恥ずかしいのかい?」
「……はい……。まるで、裸になっているようで……」
そのような言葉に、アダンの脳裏にレウの寝姿が思い浮かぶ。
しかし邪念を強く振り払い、レウの目を見つめて笑ってみせた。
「裸じゃないさ。……今の君は、風を着ているだけなんだから」
まるで自らに言い聞かせるようなその口調に、思わずレウは顔を上げる。
アダンはそっと近づき、レウの肩から流れる布の端をそっと整えていく。
その指先が白い肌に触れた瞬間、レウの体は小さく震える。
「うん。これでよし……!レウ、本当によく似合っているよ!」
アダンは再び一歩引いて、陽の光の中でその姿を見つめていく。
「……まるで、太陽と雪の間に立っているみたいだなあ」
「……えっ……?」
「君を見ていると……。涼しくて、それでいて眩しいんだ。……そうだな……。まるで、北国の風がここまで届いてきたみたいだ!」
レウは、言葉を失った。
――北国の、風。
「君の故郷は、きっと……こんな色をしているんだろうね」
知らずのうちに、レウの瞳からは静かに涙が溢れ出す。
慌てたアダンが思わずその身を抱き寄せるものの、レウはただ同じ言葉を繰り返していた。
「ありがとうございます、アダン様……。ありがとうございます……」
アダンが涙の理由を知るのは、この翌日のことであった。




