第16話 妲妃尼と鵺狐──疎外が生んだ怪物
空を覆う月蝕が、世界を不吉な赤銅色に染め上げる夜。
黒曜国の地下、創世の深淵・奈落と繋がる錬成場は、地上の喧騒を拒絶する静寂に満ちていた。湿り気を帯びた黒母岩の壁面には、青白い燐光を放つ苔が脈動するように張り付いている。
ここには「食」の悦びも、安らかな「眠り」もない。 私と阿猿が、無味乾燥な薬膳粥と禁忌の獣肉で命を繋ぎ、沈黙の中で波長を同期させ続けてきた、非人間的な時間の終着点だ。
祭壇の中央、冷ややかな黒曜石の上に衰弱しきった玉藻が横たわっていた。彼女が纏う薄衣は死の色を帯びた灰色に沈み、周囲を囲む儀式用の真鍮製香炉からは、精神を痺れさせる没薬の煙が這うように立ち昇る。
その傍らで、私が使役する白狐狼たちが牙を剥き出し、彫像のごとく控えていた。
私は全てを捨てて彼女の願いを叶えたかった。永遠など望まない。ただ、子が歩み、命を繋ぐ姿を共に見守れる一千年だけの時間を。
力なく目を開き、玉藻は私に訴えかけるように見つめた。
「……どうした?」
「……紫暮様。この部屋……腐臭が……」
玉藻は、私が無数の禁忌を犯していることを知らない。だが、その漆黒の瞳は凄惨な事実を悟っていた。
「あなたは、……知らなくて、よい」
私の短い回答に、彼女の眉間に初めて皺が寄るのを見た。それ以上、彼女は口を開かなかった。
天の眼が閉じ、世界から光が剥ぎ取られる。
銅蝋燭の火が、祭壇の玉藻を病的に照らし出した。呼吸は浅く、今にも消え入りそうな灯火を思わせる。
だが、その瞳だけは、我が子と、私を守るための決意に燃えているように見えた。
「……始めよう、……我が…君」
私の言葉に、玉藻は答えず、どこか切なげに目を閉じた。
震える指先で、私は己の喉に、そして彼女の胸元に、禁忌の術式を刻み込む。
だが、演算の最中、私の脳内を漆黒のエラーが埋め尽くした。魂のベクトルが逆行し、玉藻の魂はまるで自己消滅を選択せんとしているようである。
(――なぜだ、計算は完璧なはずだ! なぜ私の救いを拒み、死に急ごうとする……!)
彼女の魂に宿る「献身」という名の、計算不可能な変数。知性ですべてを支配してきた私が、初めて「人の心」という理不尽な壁に直面し、泥を這うように不格好に術式を修正し、彼女をこの世に繋ぎ止める。
人生で初めて冷や汗というものを、額に、全身にかきながら、深淵の波を引きずり出すように、無音の霊術を解き放つ。
――『修羅ノ世より降臨せし、荒魂よ。我、紫暮音無。再び生を与うる代償に、無音の我を下僕とせん』
呼び出したのは、月魄の世の果て、修羅ノ世に棲まう鬼神――妲妃尼。
次元の狭間を裂いて現れた影は、無数の狐尾をたなびかせ、悍ましくも息を呑むほど美しい。
『肉体が欲しい……自由が欲しい……』
妲妃尼の飢えた声が脳内に直接、暴力的な震動となって響く。私はその影を、玉藻の衰弱した肉体へと強引に捩じ込んだ。
「……う、あああ……っ!!」
玉藻の体が弓なりに反り、瞳が禍々しい金色の炎に染まる。魂が妲妃尼という強大な異物に塗りつぶされ、深い眠りにつく波長を拾った。
直後、彼女の肌は真珠のような輝きを取り戻す。死を待つだけだった四肢に、荒々しいまでの「生」が宿った。
祭壇から起き上がった「妲妃尼」が、冷酷な、しかしどこか懐かしい笑みを浮かべて私を睥睨する。
「……器を得たのは、久方ぶりじゃ。呼んだのは、そちか。余の下僕よ」
その口から放たれた言葉は、以前の柔らかなものとは似ても似つかぬ、高慢な女王の威圧を孕んでいた。
それでも私は満足だった。彼女は生きている。中身が鬼神であろうと、その器は私が愛した女のものだ。
「良き器を献上した褒美じゃ。余が冥界の蓋を穿ち、そなたの敵を喰らえる怪異を放ってやろうぞ」
妲妃尼が細い指先を宙で躍らせ、唇から紫煙のような息を吐き出すと、奈落の底から呼び起こされた黒い魂が蠢きだした。
不老不死。それは人であることを代償にした、永遠の牢獄の始まりだった。
「次、……私だ」
一千年を彼女の側で生きるため、私は自己を素材とし、自己を贄とする究極の錬丹術ーー人体を使った合成獣の錬成を執行する。
材料は、紫耀の郷里の守護獣、白狐狼。
骨が、筋肉が、意志に反して組み替えられていく。人間の形という不自由な殻が内側から激しく突き破られた。
宦官となった傷跡が焼けるような痛みを発する。指先は鋭利な鉤爪へと変じ、紫髪の色素は抜け落ち、不吉なまでの銀へと変わった。
腕からは獣の体毛が吹き出し、狼のごとき耳が頭上にそそり立ち、鋭い犬歯が唇を裂いて覗く。
「......これは、一興」
片隅で音を殺して傍観していた阿猿の目が、驚きで見開かれていた。
紫の片目と対照的な灰色の弱視だった私の瞳に、白狐狼の獰猛な黄金が収まる。
世界が、残酷なほど鮮明に波形として突き刺さる。五感は、空気のわずかな震えさえ色彩の波として捉えていた。
突如、世界が「爆発」した。
移植された聴覚が覚醒した瞬間、脳を貫いたのは凄惨な暴力だった。無音だった空間に、処理しきれない情報の洪水がなだれ込む。
壁を這う虫の足音は巨大な杭を打ち込む打音となり、己の呼吸音は嵐の荒波のように脳髄を掻き乱す。
「……っ、んんん!!」
自分の呻き声に鼓膜が引き裂かれる。耳という逃げ場のない穴から、物理的な質量を伴う「毒」が脳へ直接流し込まれる。
(――この世は、これほどまでに、うるさく、醜かったのか。)
視界の彩度は音の衝撃に揺らぎ、極彩色の衆波は、鼓動に合わせて脈打つ「鈍痛の色彩」へと変貌した。私は耳を塞ぎ、のたうち回る。
だが、その地獄のようなノイズの奔流のなかで、私は見つけた。
恐怖に震える妲妃尼の喉が鳴らす、鋭くも美しい「摩擦音」。
「――音無」
その一瞬の音を脳が演算した瞬間、あらゆる騒音が背景へと退いた。
私の耳は、この不快な世界のすべてを拒絶し、彼女の吐息だけを抽出するために再定義されたのだ。
「あ。……たまも……我が君」
最初に耳にした自分の言葉は、地を這うような重低音だった。
(ーーこれが、私の声。玉藻の声も、今なら聞こえる。)
妲妃尼を、その中にいる玉藻の魂ごと見つめた。
(ーーこれから玉藻と、一千年の時を、共に生きる。)
最後に、妲妃尼が冥界から呼び起こした正体不明の荒魂を憑依させる。
それは、ヒョーヒョーと悲しげで不気味な音で鳴き、私の孤独と憎悪を融合し形を成す禍々しい魂。
『ーー鵺狐』
言霊で縛ると、異形の姿はさらに歪んだ。牙を剥く巨大な顎が、禍々しい装甲となって胸から肩にかけてを覆い、その深淵のような口内には毒々しい眼球がいくつも明滅している。
額には漆黒の角が、背には夜を切り裂くような翼が突き出し、強靭な四肢は鋼の爪を備えていた。
もはや人間とは思えぬ妖魔。それが紫暮音無だとは誰も思うまい。
背後の影で、阿猿が音も立てずに短剣を弄んだ。
その不遜な笑みは、怪物のなり損ないから、本物の怪物へと成り果てた私への、唯一の祝福のように思えた。
「ーー殺風景な場所じゃ。なぁ、玉石はないのかえ?そなたの瞳のような、愛でる玉を持て」
妲妃尼が、尽きることのない渇望を口にした。
「命よりも希少な、血のように美しい珠玉が欲しいのじゃ」
「命の、玉石……珠玉の、血……?」
脳裏に演算されたのは、かつて秋官長が誇った「千年の統治記録」さえも焼き尽くす、新たな理。
個の狂気が、種の生存本能を飲み込んで色濃く彩られたように、文字通り命を対価に錬成される「血の結晶化」への禁忌。
私は異形の膝を折り、彼女の足元に額をつけた。
「御身の、願いのままに……妲妃尼、様」
月蝕が終わり、再び深い闇が戻ってくる。
だが、そこに立っていたのは、一人の男と女ではない。
悲劇を書き換えるための、二匹の獣。
私たちの、血塗られた新世界が、今ここから始まる。
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<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
・玉藻
音無より年上の初恋の女性。
黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草を活ける。
・阿猿
猿の半獣の少年。通常の半獣は髪(体毛)と瞳が異なる色で正体が露見するが、黒い髪と瞳のため正体を隠し、この時代、黒曜国では半獣は国外追放だが、違法滞在している。親に捨てられ月読術師養成所の所長の下で、音無の世話係として働く。
耳が良すぎるせいで聞きたくないものまで聞き、話すのを拒絶するようになった。音無と同様、特殊な視覚能力の「異能」を持つ。
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