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月魂の記|〜絶望の月読術師、闇を拓き黒き理を屠る〜  作者: 雪丘 晴佳世
零章 虚空編 〜絶望の月読術師、闇を拓き黒き理を屠る〜 

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第15話 感情を許さぬ共犯の牙

 新法典の公布により、王宮の地下には「資源(リソース)」という名の罪人が次々と運び込まれていた。

 音無(おとなし)は錬成院の最深部、青白い燐光が滴る実験室で、巨大な錬成陣の調整に没頭していた。その網膜には、捕らえられた官吏とその血族たちが放つ、恐怖と絶望の衆波が極彩色のノイズとなって映り込んでいる。


(――いっそ、この一族ごと生命霊力を抽出し、玉藻(たまも)の魂の維持に充当してやろうか。計算上、向こう十数年程度の安定は保証されるが、全然足りぬ……やはり、この世と時空間の異なる魂魄の憑依か)


 音無の指先が、空中に数式を刻む。その数式には、本来の彼ならあり得ない「冗長な苦痛」を与える術式が組み込まれていた。復讐という熱量が、冷静であるべき演算を微かに歪ませていたのだ。


 その刹那。

 背後の影から、音も、波の揺らぎもなく放たれた一閃が、音無の喉元を捉えた。


 冷たい銀の感触。阿猿(あえん)が、音無から与えられた白銀の短剣が、音無の喉仏に数ミリの距離で突き立てられていた。


「…………」


 音無は動かない。背後に立つ阿猿から放たれる衆波(しゅうは)は、殺意ではなく、凍てつくような「拒絶」だった。阿猿は猿の姿から人間へと戻り、言葉を捨てたはずの喉で、知性を宿した鋭い視線を音無の(うなじ)に突き刺した。


 牙を剥く彼の瞳が、無言で語っていた。


(お前の演算は、いつから私怨という『ゴミ』を混ぜるようになった)


 音無の脳内に、阿猿の意志が直接的な波形となって叩き込まれる。術式の美しさを唯一理解できる阿猿にとって、憎しみで汚れた音無の計算は、耐え難い「汚物」に他ならなかった。

 彼は、音無が感情的に流されて「解を間違える」ことを許さない。


 音無はゆっくりと振り返り、喉元の刃を避けることもせず、掠れた声で応じた。


「……すべて、我が君の、幸福のため。……不服か」


 喉から漏れるのは、不快な振動。だが、その瞳には「愛」という名の、底なしの狂気が宿っている。


 阿猿は音無の瞳を凝視し、突き立てていた短剣を、翻すような速さで鞘に収めた。

 音無を崇拝しているのではない。阿猿は、音無という「真理」が、俗世の濁った感情で曇ることを嫌悪している。


 阿猿の口角が、不遜に吊り上がった。


「私怨ではなく愛か。複雑怪奇に諸事を成しながら、お前のその単純明快な(ことわり)、嫌いではない」


 人界の鬼才ともいうべき音無に対し、阿猿は対等な捕食者のように言い放ち、薄く笑った。

 愚か者どもを煉獄(れんごく)に送る鬼神のように君臨する音無が、「感情的な人間」に成り下がろうとするところを、阿猿だけは「冷徹な怪物」へと引き戻す。


 音無は再び錬成陣に向き直った。脳内のエラーは消え、数式から私怨という不純物が削ぎ落とされる。阿猿という鏡に照らされ、音無の狂気はより純粋な、一点の曇りもない「暴力的な愛」へと研ぎ澄まされた。


 夜の(とばり)が王宮を包む頃、地下の研究室には、地上の喧騒とは隔絶された「非人間的な静寂」が支配していた。


 音無の前の卓には、小さな陶器の器が置かれている。中身は、霊草を煮詰めただけの無味無臭の薬膳粥(やくぜんがゆ)だ。宦官(かんがん)となり、禁忌の実験を繰り返した代償として、彼の味覚はすでに完全に死に絶えていた。

 音無にとって、食事は「空腹を満たす快楽」ではなく、演算を維持するための「効率的な霊力摂取」という作業に過ぎない。彼は(かゆ)を、味も温度も感じぬまま、泥のように淡々と喉の奥へ流し込む。


 対して、その足元に蹲る阿猿の傍らには、王宮の秩序を根底から覆す「血の匂い」が漂っていた。


 この世界、月守(つきもり)創世(そうせい)定石則(じょうせきそく)には「生命を蹂躙(じゅうりん)すること(なか)れ」という厳格な戒律がある。魚以外の動物性の肉を食らうことは、魂を汚す野蛮な行為として、黒曜国(こくようこく)では忌むべき禁忌とされていた。

 だが、阿猿は夜ごと王宮を抜け出し、自ら狩りを行う。今宵も、彼がさばいたばかりの野鳥の生肉が、無造作に転がっていた。阿猿は野生の証明を刻むように、滴る血を拭いもせず、熟しすぎた果実と獣肉を交互に咀嚼(そしゃく)する。


「…………」


 音無は、その血の匂いに眉ひとつ動かさない。

 戒律も、倫理も、二人の前では無意味な記号でしかなかった。


 食事が終わると、地下室には新たな音が刻まれる。

 音無が冷たい石板に、鋭い石筆で「理」を刻む、硬質な音。

 阿猿が影の中で、白銀の短剣を黙々と磨く、研磨の音。


 会話はない。言葉という不確かな媒体は、彼らにはもはや不要だった。

 音無の放つ冷徹な演算の衆波と、阿猿の放つ荒々しくも研ぎ澄まされた殺意の衆波。二つの波形は、刻まれる音のリズムに合わせ、恐ろしいほどの精度で完全に同期(シンクロ)していく。


 二人の間では、言葉がないことが、最も雄弁な対話であった。


 互いの存在を確認する視線すら交わさない。だが、その沈黙は、どんな誓いの言葉よりも深く二人の「共犯関係」を繋ぎ止めていた。

 石板を刻む音と、刃を研ぐ音。

 その奇妙な平穏は、やがて世界を恐怖で塗り替える嵐の前触れとして、地下の闇に重く、深く沈殿していった。



___________________________




<前回までの登場人物>


紫暮 音無(しぐれ おとなし)

零章の主人公。

耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀(しよう)の里で生まれ、親に売られた。

紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波(しゅうは)」として視覚的に捉えることができる異能者。

錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。



玉藻(たまも)

音無より年上の初恋の女性。

黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草(シロツメグサ)を活ける。



阿猿(あえん)

猿の半獣の少年。通常の半獣は髪(体毛)と瞳が異なる色で正体が露見するが、黒い髪と瞳のため正体を隠し、この時代、黒曜国では半獣は国外追放だが、違法滞在している。親に捨てられ月読術師養成所つきよみじゅつしようせいじょの所長の下で、音無の世話係として働く。

耳が良すぎるせいで聞きたくないものまで聞き、話すのを拒絶するようになった。音無と同様、特殊な視覚能力の「異能(いのう)」を持つ。


___________________________



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

noteでは、本作のビジュアルイメージ(AI生成イラスト)や、物語の背景を深掘りする記事を順次公開しています。

https://note.com/yukioka_gekkon/m/md7a988d57966(※マガジンへ飛びます)

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