第17話 黎明の月読術師──千年の孤独な約束
常に人払いされた観測塔の最上階。磨き抜かれた真鍮製の巨大な天球儀が、冷徹な歯車の音を立てて回る。私はその傍らで、浮遊する水晶球に映し出される城下の光景を「鑑賞」していた。
鏡面のような水晶に映るのは、かつて「奴隷の売買」で私服を肥やした豪商の私邸。
豪奢な絹の寝着を纏った男が、ある朝、右腕の「喪失」に絶叫する。痛みも、鮮血もない。ただ、存在しないかのように肩から先の感覚が消え去っている。
男は狂ったように這い、壁に嵌め込まれた法典の石板へ縋りついた。
そこには、私が昨夜、指先一つで書き換えた「新しい黒曜国の理」が、黒真珠のように鈍く光る文字で刻まれている。
『第百八条:下賤なる魂を売買せし者の肉体は、その対価として一部を法に返納せねばならぬ』
「そんな馬鹿な……! これは先代王が認めた正当な商売だ!」
男が虚空を呪った瞬間、連動する術式が彼の左足をも「概念的」に削ぎ落とした。彼の「法に背いた」という認識そのものが、肉体を逐次解体する起動鍵となる。
城外では、昨日の英雄が「余剰資源」として連行され、民衆は「悪徳商人が裁かれた」と無知な快哉を叫ぶ。だが、その天秤を操るのは正義ではない。地下に潜む私の「演算」と「不機嫌」に過ぎない。
私が筆を一本走らせれば、昨日の慈悲は今日の死罪となり、愛する家族は次の瞬間に「錬丹術の燃料」へと置換される。黒曜国はもはや国家ですらない。紫暮音無という名の巨大な蜘蛛が、自らの巣に掛かった獲物を法という糸で締め上げる「胃袋の中」へと成り果てた。
私は銀の毛並みを湛えた白狐狼の半獣へと自らを造り替えた。
紫耀衆の短命の呪いである「日光に焼かれる不治の病」を隠れ蓑に、地下深層へと潜伏し、王権を完全に私物化する。
玉座に座る傀儡の王も、王宮に列を成す月読術師たちも、妲妃尼に捧げる生贄の血を調達するための駒。彼らは私の遠隔指示を「神の薫陶」と崇め、狂信的な歓喜に身を震わせる。
合成獣を創り出す禁忌の過程で、私はこの国に副産物としての「福音」を撒き散らした。
背に翼を移植した「飛獣」の安定化により、雲海を跨ぐ物資輸送は劇的に加速し、経済は爆発的に潤う。追放された半獣たちを呼び戻し、戸籍なき滞在を許したのも、慈悲などではない。人々は「紫暮様こそが現世の救世主」と信じて疑わないが、その本質は、玉藻の珠玉の血を狩るための「異形の狩人」を量産する実験場を隠すカモフラージュだ。
身勝手が編んだ新世界の理を、人間は自分に都合さえ良ければ感謝し、賞賛する。滑稽を通り越して、もはや退屈ですらある。
妲妃尼が月光の刺すような輝きを嫌悪すれば、私はその理由だけで天文学を支配した。
日々、星々の運行を数理モデル化し、大気を覆う雲の質量を導き出す。予報の精度は農作物の大豊作を招き、国民の腹を肥やしたが、私の真意は彼女に差す不都合な光線を遮断すること、ただ一点にある。
観測塔の最上階から見下ろす黒曜国は、もはや私にとってひとつの「巨大な計算機」に過ぎなかった。
私の視界には、肉眼が捉えるような景色は存在しない。
蠢く国民は「エネルギーの流動」として、市場の金貨は「経済の拍動」として。そして私が書き換えた法典は、国全体を縛り上げる「精緻に整理された灰色のグリッド」として世界を網羅している。
変数はすべて排除した。
民の思想も、役人の私欲も、私の演算式の中に組み込まれ、予定調和の未来へと収束していく。世界は、完璧に調和した退屈な「無音の設計図」へと成り果てた。
「……阿猿。あそこにいた、官吏……何を、……企んでいた?」
背後に控える影に問う。だが、その答えすら聞く必要はない。彼の衆波を見れば、謀反の芽がどの確率で摘まれたか、私にはすべて「灰色の解」として視えているのだから。
私はふと、露台から視線を建物内の造園へと落とした。
そこは、私が命じて徹底的に管理させた「秩序の極致」だ。枯れ葉一枚、雑草の一本すら許されない、完璧な幾何学模様の庭園。
だが、その灰色に塗りつぶされた視界の隅で、ひとつの「異常」が鼓動していた。
白磁のタイルの隙間。風が運んだのか、あるいは彼女が落とした想いか。
石の冷徹を押し退け、場違いに芽吹いた一輪の白詰草。
(――……!?)
その瞬間、世界を覆っていた灰色のグリッドが、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
色彩の爆発。
完璧な秩序の中に咲くその緑は、目を開けていられないほどに眩い。周囲の「理」を焼き切るような暴力的なまでの翠と、純白。
「どうした」
阿猿の呼びかけも耳に遠い。
「あ……」
喉の奥が震えた。
情報の波として処理できない、圧倒的な「色」。
それを見た瞬間、私の脳内には、彼女が「貨幣を持たない私には、これしか……」と笑って差し出した、あの日の笑顔が極彩色の津波となって押し寄せた。
全能。神の如き知性。王宮の支配者。
そんな肩書きが、一輪の雑草が放つ色彩の前に、無価値なガラクタのように崩れ去る。
私の心は、どれほど法典を書き換えようと、どれほど人を資源に変えようと、結局はこの「一輪の色」にのみ支配されているのだ。
「紫暮、排除するか」
私を呼び捨てにし、背後で阿猿が殺気を孕んだ声で問う。その問いは、私に「怪物としての純度」を取り戻せと促す鏡の刃のようだった。
私は、眩い色彩の暴力に目を細め、胸の奥を焼き付くような痛切な感情――「人」であった頃の、玉藻への絶望的なまでの愛執――に身を焼かれる。
「……いや。……そのままに、しておけ」
私は、灰色の設計図へと戻りゆく視界の中で、その一点の「白」だけを見つめ続けていた。
王国のすべてを支配したはずの私は、結局のところ、彼女の残した小さな色に囚われたままの、哀れな敗北者であった。
私はその夜から、一つの書を綴り始めた。
表題は、滑稽なほどに平易な『白詰草の栽培法』。
一見すれば、ただの隠居した園芸家の手記にしか見えぬその行間には、私の犯した全罪状と、神の領域を侵す全叡智を暗号として落とし込んだ。
土壌の配合比率は「人間の合成獣理論」を、
剪定の時期は「禁忌の霊術憑依術」を、
開花の条件は「闇の波による時空間の歪曲」を――。
我が君、玉藻への狂おしい恋文を核に据え、兄巫女の残した隧道へ至る数式から、修羅ノ世の冥界との繋ぎ方に至るまで。この世の月読術師が一生をかけても辿り着けぬ「禁忌の総体」を、あえて雑草の育て方という「偽りの理」の中に幽閉したのだ。
(ーー後世、私の演算をなぞる者よ。もし貴様がこの暗号の奥底に潜む私の絶望を、白詰草の毒を読み解けるほどの『同類』であるならば――」
私は誰もいない塔の闇で、静かに口角を上げた。
(ーー私のすべてを継承してやる。この数理モデルに潜む私を見つけ出し、追いかけてこい。貴様が光へ向かうか、私と同じ奈落へ堕ちるか、一千年の孤独の果てに『観測』してやろう)
私はその書を、後世の天才が拾い上げるであろう知識の墓場、錬成院書庫の最奥へと放り投げた。
三十歳という寿命の臨界点が迫る中、私は妲妃尼と共に「奈落」の暗部へ身を隠した。兄巫女が辿り着いたとされる「事象の地平線」。
私は時空間の膜を切り裂き、虚無の穴を穿つ技術――自然界の理である「正の波」を打ち消すことで生まれる「闇の波」を、兄巫女の残した隧道から演算し、完成させる。
これは、正の錬丹術を次元の狭間に幽閉し、必要な瞬間にだけ引き出す不可逆の隧道。私は敵対者の術を瞬時に無効化し、その光を闇の中へ吸い込ませる絶望の波を手にした。
だが、この万能に近い力にはバグが存在した。
月の光が肌に触れるたび、憑依させた禍魂が私の肉を内側から食い破ろうと暴れ出す。理を塗り替えた報いが、灼熱の痛みとなって背筋を苛む。禍魂を完全に支配すべく、私は「月の満ち欠け」に言霊を与え、人々を「月闇」の恐怖で縛り上げた。
そして、月守。玉藻の産んだ子。
宵を生きるその巫女を、私は愛憎の入り混じった複雑な視線で観測する。月守は玉藻の忘れ形見としての守護対象であり、同時に、私の愛を無慈悲に引き裂いた官吏たちの汚れた血を引く呪物でもある。
妲妃尼が求めるのは、この世のどこにも存在せぬ極彩色の輝き。
私は、あらゆる命が内包する「波長の輝き」を抽出し、物理的な重さを持つ結晶へと固着させる禁忌を確立した。捧げる贄の質が、情念が、絶望が深いほど、その珠玉は妲妃尼の瞳を喜ばせる残酷な色を湛える。
輝きを奪われ、抜け殻となった「かつての人間」――。
それすらも私は無駄にはしない。妲妃尼の妖力を流し込み、私の指先一つで動く「新たな理の尖兵」へと作り変え、さらなる供物を運ぶための狩人として野に放つ。
人々は、夜空から忍び寄り、闇から伸びるその手を「月尸」と呼び、抗えぬ天災として怯えることだろう。彼らが恐れるその異形が、刻を共にした隣人の「なれの果て」であることなど、知る由もない。
私は、一千年孤独な月守に寄り添う月すら死に絶えた絶望の闇を「亡月」、希望を与えうる真円の月を「望月」と銘打った。結晶の残滓から成る異形の尸へと変貌した者を「禍魂」という人々の呼称が、満ち欠けの名称と共に人界へ伝播していく。
だが、私の完璧な演算にさえ、それは想定外の盲点として潜んでいた。
五百年後の月下、私が銘じた希望の名を冠し、真なる光を宿して生まれる『不確定要素』。その胎動を、この時の私はまだ、察する術も持たなかった。
「……なぁ、音無。もっと美しい珠玉を。この世に『真珠』はないのかえ?」
妲妃尼は、私が憎んだあの呪いの名を呼ぶ。その響きに玉藻の慈愛はない。際限のない渇望が混じるのみ。
だが、その呼び声が私の鼓膜を震わせるたび、私は形容しがたい充足感に満たされる。彼女が私を『音無』と呼ぶのは、私が彼女に音を捧げ、理を壊したという「共犯の証」に他ならない。彼女が私を呪うほど、私は彼女の唯一の所有物として完成していく。
「しんじゅ、とやら……この世に、ない」
「ならば、鮮血のような八色の、刹那的輝きを余に捧げよ」
妲妃尼の月のような妖しい微笑。それは玉藻が向けた花のような柔らかな微笑とは程遠い。私の魂を救うことがない、冷え切った嗜虐の笑顔。
それでも構わない。
彼女の魂は、この悍ましい肉体の深層で眠り続けながら、月守の子を見守り続けている。その「生の執着」こそが、私の演算の全根拠だ。
一千年の時間を経て、彼女の延命という唯一の解が導き出されるなら、消費される幾万の命など、数式の末尾に現れる端数に過ぎない。
「御意。この世のすべて、君のため……極彩結晶に、変える」
私は妲妃尼が喜ぶ結晶の山を玉座とし、その頂点に彼女を座らせる。
五百年の年月の堆積。周囲には山積する死骸と、虐殺によって維持された歪な平和が、満開の花のように狂い咲く。
やがて人間共は、夜を統べる影に気づくことなく、かつて人間だった私の髪色と新時代の幕開けを掛けて、こう呼称した。
――『黎明の月読術師』と。
零章 完
(次章本編へつづく)
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<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
・玉藻
音無より年上の初恋の女性。
黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草を活ける。
・阿猿
猿の半獣の少年。通常の半獣は髪(体毛)と瞳が異なる色で正体が露見するが、黒い髪と瞳のため正体を隠し、この時代、黒曜国では半獣は国外追放だが、違法滞在している。親に捨てられ月読術師養成所の所長の下で、音無の世話係として働く。
耳が良すぎるせいで聞きたくないものまで聞き、話すのを拒絶するようになった。音無と同様、特殊な視覚能力の「異能」を持つ。
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