第11話 闇への転落
処罰による高熱と激痛が引き、ようやく寝台から身を起こせるようになった頃。
険しい顔をした阿猿が自室に届けた一通の報告書が、私の残された人間性を粉砕した。玉藻が王命により王宮の官吏にあてがわれ、あろうことか「月守の子」を宿したという。
頬を伝ったのは涙ではない。
鼻孔からあふれ、唇を汚したのは、どす黒い怒りの味――紫色の己の血だ。
激しい目眩が視界を歪める。腐った毒を流し込む感覚で、癒えかけた傷口が熱く疼いた。
報告書を握る指が、奥歯が砕けるほどの力で震える。
――月守の子。
指一本触れることすら躊躇い、神仏のように崇めていたあの人が。
安寧を守るために、男としての尊厳さえも王に差し出して耐えていた守護の裏側で。
白詰草のようにささやかな華が、ただの雑草のごとく踏み躙られていた。
ーー私への処罰に飽き足らず、彼女の尊厳までも奪うのか。
卑俗な欲望を隠しもしない官吏が、ただの所有物として彼女を組み敷き、その胎に種を植え付けた。
月守を産んだ母親は、出産と共に必ず死ぬ。それがこの世界の呪われた摂理だ。
「――ッ、あ、……ああ、ああああ!!」
声にならない絶叫を上げ、黒檀の机に積み上げられた資料をすべてなぎ払った。
黒曜国の法律が脳裏をかすめる。『男の不義密通は罪に問わず』。
彼女は不浄な下女として隔離され、男は次代の父として富と名誉を得る。
ーーこれが、お前たちが守り続けてきた正義か。月守が治める、慈悲深き現世の形か。
怒りと嫉妬が胃の腑を焼き焦がす。
主人を呪うだけでは足りない。王を憎むだけでは生温い。
この国そのものが、ささやかに生きる魂をただ消費し、使い捨てるための巨大な肉挽き機にしか見えなかった。
血に染まった手で、机に彫り込まれた古い術式文様をなぞる。紫と弱視の灰色の瞳に、歪んだ執念を宿す。
――法が彼女を救わぬなら、私が法を書き換える。
――理が彼女を殺すなら、私がこの世の理を喰らい尽くす。
胸の奥で、澄み渡った狂気が静かに定着していく。
ーー他人の命。倫理。禁忌。そんなものは、玉藻が流した涙の一滴よりも価値がない。
鼻血を拭うこともせず、棚の奥から「人間の解体」と「魂魄の合成」を記した禁断の霊術文献を引き出した。
紫と弱視の灰色の瞳に、歪んだ執念を宿す。
――王を殺す。官吏を、主人を、この国を支える愚か者たちを、すべて術の薪にしてやる。
もはや音無という名の被害者ではない。
世界を喰らい、理を咀嚼し、彼女一人のためだけに新たな修羅ノ世を作り出す怨霊だ。
死んだ魚のような瞳で王に従う「完璧な人形」を演じながら、地下の研究室で狂気と叡智を掛け合わせていく。
玉藻と共鳴するための美しい音など求めない。
求めるのは、この汚泥に満ちた世界を根本から書き換えるための破壊的な周波数だ。
王は、私が改心し大人しくなったと悦に浸り、毒物の研究を私に命じた。
王子に王位を継承させるために、後宮にある不要な種のすべてを除きたがっていた。
私は、王が愛飲する黄金色の月露酒に、「祝福」と称する微細な銀の粉末を捧げた。
それは物理的な毒ではない。特定の周期で王の心臓に共振を促す、液体状の術式構造体だ。
『……国王陛下、これは貴方の血を浄化し、永遠の若さへ導く丹薬でございます』
筆談の文字で王を欺き、私は数ヶ月にわたり、彼の体内に緻密な「旋律」を刻み込んでいった。
毒を盛るのではない。彼の生命そのものを、私の指先一つで爆発する楽器へと変造する工程だ。
その間、私は王の信頼を逆手に取り、王宮の書庫から秘匿された錬丹術の古文書を漁り、官吏たちの弱みを握り、影で糸を引いて彼らを互いに疑心暗鬼へ陥れた。
私の術式を理解できる者はこの国に存在しない。
謁見の間。私は王の足元に跪き、完璧な人形として頭を垂れる。
鈍い光を放つ絹の官服の袖に手を隠し、導器たる指輪を微かに震わせた。
視界には王の胸の内で脈打つ心臓の波形が、死へと続くカウントダウンの針として見えていた。
空間に放たれた微細な音の楔が、王の体内に溜まった銀の粉末と共鳴する。
次の瞬間、王は喉を掻きむしり、玉座から転げ落ちた。
悲鳴すら上がらない。心臓が自らの鼓動によって内側から砕け散る理を設計したのだ。
自身の生命維持の拍動によって自壊していく王を、私は冷ややかに見下ろした。
――愚王よ、聞こえるか。お前が愛でた私の沈黙が、今、お前の内側で絶唱している。
官吏たちの目の前で死んだ王は、病死と診断された。
混乱する宮廷の裏で、私は次期王位継承者である幼い王子に近づき、その不安につけ入って、「黒曜国錬成院」の設立を提言した。
地下の小さな個人の研究所を拡張し、月読術師養成所の資源を全て呑み込んだ、公的な機関。月読術師たちを己の手足として動かせる。
王子の寵愛を一身に受け、私は若くして初代所長という絶対的な地位を手に入れた。
目的はただ一つ、玉藻を弄んだ者たちへの復讐と、互いの延命のための人体実験。
すべては、あの日、白磁の壁に囲われた奥殿で玉藻に再会した時から決まっていた。
人払いをした静寂の部屋。香炉から漂う没薬の重い香りが、死の予感のように満ちている。
ようやく再会できた玉藻は私を見るなり泣き崩れた。
彼女の腹部は、月守の種を宿して微かに膨らんでいる。
「……紫暮様」
美しい唇が私の名前を告げるのを、一瞬たりとも逃すまいと読んだ。
玉藻への執着が心の底からあふれ出す。苦悩と悲哀に満ちたその表情が、私の胸をも苦しくさせる。
――玉藻と、共に生きたい。あの笑顔を、もう一度だけ、この手で錬成してやりたい。
塞いでいた言霊を、再び紡ぎ出す。私の発する音は、玉藻のためだけにある。
「あ。……我が君……」
触れようとして、止めた。
指先が震える。宦官となった身体は、もはや男としての機能を失っている。
それ以上に、今の私は彼女を蹂躙した官吏と同じ「男」という種族であることが、耐え難いほど汚らわしく感じられた。
「……紫暮様……その身に受けた、罰のお話を伺いました。お労しい……。わたくしのせいで、あなたは……」
彼女が震える手で私の頬を包もうとする。温もりに縋り付きたい衝動を抑え、冷徹な仮面をかぶった。
「私、人…辞めた。我が君を、傷つけた、この世の理……すべて書き換える」
玉藻は涙を流しながら、胎の子を見つめて言った。
「私は死んでも構いません。けれど、この子が……この子がいつか利用され、壊されるのが恐ろしいのです。悪霊になってでも、私は、千年孤独な宵を生きなければならない我が子を、一人にしたくない……」
その言葉が、私の深淵に火をつけた。
玉藻。あなたがそう願うなら、私はその悪霊を飼い慣らす修羅そのものになろう。
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<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
・玉藻
音無より年上の初恋の女性。
黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草を活ける。
・阿猿
猿の半獣の少年。通常の半獣は髪(体毛)と瞳が異なる色で正体が露見するが、黒い髪と瞳のため正体を隠し、この時代、黒曜国では半獣は国外追放だが、違法滞在している。親に捨てられ月読術師養成所の所長の下で、音無の世話係として働く。
耳が良すぎるせいで聞きたくないものまで聞き、話すのを拒絶するようになった。音無と同様、特殊な視覚「異能」を持つ。
・王
黒曜国王。黒い髪と瞳の男。法と秩序を絶対とする。血筋を重視する王族の異母兄妹から生まれた。音無の才能を寵愛し、私物化する。
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