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第10話 我が君──音が生んだ無慈悲

 十七歳の冬。


 緩やかに失われていく視界の恐怖に抗うため、私は実験ができない禁忌(きんき)の解剖学理論にまでその知見を広げていた。

 医学書を読みあさる日々の中で、私はある一冊の古書に出会う。それは実証されぬまま書庫の隅で埃(ほこり)をかぶっていた、名もなき医者の手記だった。そこには、視覚と月光の異常な相関関係が記されていた。


 これまで誰も言語化できなかった理(ことわり)。

「錬丹術とは、月光と陽光を対価とする業(わざ)である」

 月が欠け、光の乏しくなる夜に術を多用すれば、不足分は個人の生命力――すなわち「寿命」で補われる。


 網膜(もうまく)を焼くような激痛が走るのは、決まって二十三日の半月から、月が消える三十日を抜け、翌月六日の半月に至るまでの闇が深い期間。

 私は悟った。生まれながらの生存本能により、私の視覚は常時、無意識に錬丹術を「全開放」してしまっているのだと。

 この眼を閉じれば寿命の削り出しは止まる。だが、生存のために開かれた本能を、知性で制御することなど不可能だった。


 夕暮れの橙(だいだい)色の光が、無音の空間を支配している。音無は懐(ふところ)から筆記具を出すのをやめ、覚悟を決めたように玉藻(たまも)の瞳を真っ直ぐに見つめる。


 玉藻が深々と頭を下げ、戸口へ向かおうとした。その背中を見送るのが、いつもの理論的「孤独」の定位置だった。

 だが、今日は違った。私は、自分の肋(あばら)の奥で鳴り響く、激しい波長を抑えきれなかった。

 人前で声を発したことがない私は、最初に彼女の名を呼びたかった。数年、訓練をしてきた成果を発揮する時。

 王の前でも動じなかった私は、たった一言発生するという、誰でもできることに激しく緊張していた。


 筆は持たない。紙も要らない。 私は、鏡の前で血がにじむまで喉(のど)を震わせた、あの「感覚」を呼び起こした。


「あ。……た…まも」


 自分の喉が裂けるような感覚だった。放たれた音は、自分では聞き取ることすらできない。ただ、空気が震え、目の前の空間が波立ったことだけが、肌を伝う振動でわかった。


 玉藻の背中が、雷に打たれたように硬直した。 彼女は信じられないものを見るように、ゆっくりと、私を振り返った。


「……紫暮様……声が…...!」


 震える彼女の唇の動きを、私は必死で読み取る。 私は、一度堰(せき)を切った言葉を、濁流のように押し出した。この瞬間のために、完璧だと思えるまで、繰り返し練習した口の形と発声。


「たまも」


 それは、教養ある月読術師が発するとは思えぬ、かすれた、幼子の泣き声のような音だった。


「愛……し、ている。君、欲しい。……そば、にいて」


 喉の奥から絞り出したのは、教養ある月読術師が発するとは思えぬ、稚拙(ちせつ)で、むき出しの執着だった。そして、切実なほどに真剣な、求愛の言葉。


 玉藻の大きな瞳から、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は口元を両手で覆い、よろめくように私へ一歩、踏み出した。


「ああ……。お声が……。わたくしのような者の名を、そのように、尊いお声で……」


 彼女の手が、空中でさまよう。 泣き崩れる彼女を抱き止めたい、その熱に触れたいと願うように、彼女の指先が私の肩へと伸びる。


 だが、その刹那――部屋の外の影が、不自然に揺らめいたのを私の視覚優位の感覚が捉えた。

 襖(ふすま)のわずかな隙間に、卑しい好奇心と強欲に濁った波長が淀んでいる。玉藻の主人だ。彼は、私が耳の聞こえないのをいいことに、本来立ち入るはずのない術師の聖域にまで、私を監視し、金になる弱みを握るために這(は)い寄っていたのだ。


 今の私の「声」は、彼にも届いてしまった。

「音」を持つ者の耳を、私は呪った。


 玉藻は我に返ったように、伸ばした手を自ら引き戻し、胸元で固く握りしめた。

 彼女は膝をつき、冷たい石床に額を擦りつけるようにして、むせび泣いた。


「お許しください……。貴方のお側に、一歩でも近づきたいと願う、この卑しき心をお許しください……!」


 私は、彼女の頭を撫でることすらできなかった。 わずか数寸の距離。そこに横たわるのは、黒曜国という巨大な制度に作られた人間の意識の壁、奴隷と王宮賢者という絶望的な断絶。


 私の腕は、永遠に彼女に届くことはないのだと、この時、悟ってしまった。


 私は、震える指先を隠すように拳を握り、音のない空間で、ただ彼女の泣く背中を見つめ続けた。

 私の声は、彼女に届いた。この音を、確かに聞かせることができた。

 だが、同時に、私を「便利な人形」として独占したい王の耳へと届く呪いにもなった。




 異変は、唐突に訪れた。


 玉藻の身受けを申し出るための資金と論理を固めていた数日後、私は側近を連れることも許されず、王の私室へと引き立てられた。


 室内には、王の執着に濁った重い沈静が満ちていた。 視界の端には、卑しい笑みを浮かべて金貨の袋を数える玉藻の主人がいる。彼は、私の玉藻への執着を「商品価値の毀損(きそん)」として王に売り渡し、代わりに私の才覚を独占したい王の機嫌を煽(あお)ったのだ。


 私は、自分が犯した「罪」の深さを知らなかった。 この国の理において、奴隷の恋を願うことは、他人の家畜を盗もうとする賊(ぞく)と同じなのだ。


「黒曜民でもないお前は、王たる余(よ)から厚遇を受けておきながら、この国の秩序を乱すつもりか!与えられた身分を忘れ、下賤(げせん)な女にうつつを抜かすなど、その叡智(えいち)を生み出す害でしかない」


 王の唇は、冷徹な三日月を逆さに描いた。 王の声は聞こえない。だが、空間を震わせる暴力的な衆波が、私の肺を圧迫する。


 衛兵たちに組み伏せられ、冷たい石床に顔を押し付けられる。

 視界が上下し、腰帯を解かれ、無慈悲に素肌を晒(さら)される。


「……っ!……!?」


 歪(いびつ)な波形が視界を埋め尽くす中、私は見た。 王が手に取ったのは、月読術師が薬草を刻むために使う、鋭利な錬成刃(れんせいば)。


「お前の能力を、私以外の誰かや繁殖のために使うな。お前のすべては私の私物だ」


 下腹部を貫く、凄まじい激痛。 それは、いかなる錬丹術の熱量をも凌駕する、魂を焼くほどの断絶だった。


「ーーーーー!!!」


 喉から絞り出されたのは、声ですらなく、ただの空気が漏れる不快な振動。

 私は、男であることを奪われたのではない。玉藻と同じ地平で生きるという一縷(いちる)の希望を、この国の「秩序」と「権力」という刃で解体されたのだ。


(ーー私は……『無』の心以外、持ってはならぬのか)


 意識が白濁する寸前、私は王の背後に、玉藻の主人がさらに重い金貨を王から受け取る光景を捉えた。 玉藻という一人の魂を、金と媚(こ)びに変えた男。 そして、私の尊厳を「私物」とし、彼女を「害」と呼んだ王。


(ーーああ……そうか。この世界の『理』とは、かくも醜い数式で成り立っているのだ)


 私は、血の海に横たわりながら、共感を覚えた「人柱となった兄巫女」の絶望を、自らの肉体で完全に理解した。


 王宮の窓から差し込む、冷ややかな月光だけが私を照らしている。

 痛みが意識を白濁させる中で、私は悟った。玉藻との人生は永遠に存在しない。


 その瞬間。

 どうしても閉じることができなかった錬丹術の視覚が、ふっと消えた。

 衆波の色彩は失われ、世界は灰色に塗り潰される。本能が、聴覚に続いて視覚すらも、生きることを諦めたかのようだった。


(この目も、耳も、命すらも。……玉藻以外、もう、何も要らぬ……)


 私は、涙に濡れた瞳を、月の裏側の暗闇へと向けた。願っても会うことができない彼女への恋しさが、初めて、言いようのない深い「孤独」という感情をもたらした。


「玉藻……我(わ)が……君(きみ)」


 宦官(かんがん)にされた欠落した肉体で、私は二度と届かぬ名を、呪詛(じゅそ)のように吐き出した。 それが、人間としての「紫暮音無」が発した、最後の一言となった。



___________________________




<前回までの登場人物>


・紫暮 音無(しぐれ おとなし)

零章の主人公。

耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀(しよう)の里で生まれ、親に売られた。

紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波(しゅうは)」として視覚的に捉えることができる異能者。

錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。



・玉藻(たまも)

音無より年上の初恋の女性。

黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草(シロツメグサ)を活ける。



・王

黒曜国王。黒い髪と瞳の男。法と秩序を絶対とする。血筋を重視する王族の異母兄妹から生まれた。音無の才能を寵愛し、私物化する。


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最後までお読みいただき、ありがとうございます。

noteでは、本作のビジュアルイメージ(AI生成イラスト)や、物語の背景を深掘りする記事を順次公開しています。

https://note.com/yukioka_gekkon/m/md7a988d57966(※マガジンへ飛びます)

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