7-5 幽霊と喘息
「もう無理、ギブアップ」
力尽きて地べたに座り込もうとすると、神楽くんが「あ、ちょっと待って」と言ってバッグからピクニックシートを取り出した。穴の真ん中にシートを敷いて、その上にちょこんと並んで腰を下ろす。
神楽くんの左肩が私の右肩に触れた。
「あ、ごめん」
「いちいち謝らなくていいよ。狭いんだからしょうがないじゃん」
見上げると、天井の穴から灰色の空が覗いている。
相変わらず、雨混じりの空。
「うん、でも、ごめん。須崎さんをこんなことに巻き込んじゃって」
「別に、神楽くんは悪くないじゃん。伊藤亮介を待たずに悠里ちゃんを追いかけたのも、一人で山を下りようとしたのも、穴に落ちたのも、携帯の充電切らしたのも、全部わたしなんだから」
「それは違うよ!」
突然、神楽くんが大声を上げた。びっくりして彼の顔を覗き込む。
「ごめん、大きな声出して……でも、須崎さんは悪くない。悪いのは、きっと……」
そこまで言って、神楽くんは口ごもる。
「きっと、なんなの?」
「……沙希さんが怒ってるのかも」
彼が口にしたのは、悠里ちゃんのお母さんの名前だった。
二年前に死んだ悠里ちゃんのお母さん。とても綺麗な女性で、神楽くんの初恋の人。クマの人形に乗り移って神楽くんに毎日メモを残し続けていたという。
「沙希さんって、アンタまさか、これも幽霊のせいだって言いたいの?」
「僕、悠里の面倒を見るって約束したんだ。それを破ったから、きっと沙希さんが怒って僕たちをここに引きずり込んだんだよ」
ギッキョキョルゲェー!
わたしの頭の中で、穴に落ちる前に聞いた不気味な鳥の鳴き声が再生される。
まさか、アレが幽霊の仕業?
一瞬そんな考えが浮かんで、慌ててクビを振って打ち消した。
「そんなことありえないよ」
「沙希さんのメモのこと、覚えてる? 悠里に必要な五つのアイテムのうち、使ってないのは携帯電話と十メートル以上のロープだよね。考えてみてよ。そのどちらかがあればここから脱出できるだろ。つまり、この防空壕はもともとは悠里が落ちるはずだった穴なんだ」
神楽くんの口調は、まるで熱に浮かされたようだ。
「間違いない。人形に取り憑いていた沙希さんの幽霊が怒ってる。彼女は僕を解放しないつもりなんだ。それで、本来悠里が落ちるはずの防空壕に、僕たちを……ゴホッ」
そこまで言うと、神楽くんは大きく咳をした。
そもそもわたしは、幽霊がメモを書いていたという話からして本気で信じているわけじゃない。でも、もし万が一それが本当だとしても、仮にも悠里ちゃんのお母さんなんだし、友達のわたしたちに悪さするとは思えなかった。いくら約束を破ったからって、悪霊や怨霊じゃあるまいし。
それとも、幽霊に良い幽霊も悪い幽霊もないんだろうか。
なんとなく背筋が寒くなった。
「だからゴメン、きっと僕が須崎さんを巻き込んじゃった……ゴホゴホッ」
神楽くんが立て続けに咳き込み始める。そういえば、ちょっと前から彼の頬は妙に赤かった。
「大丈夫? 風邪でも引いたんじゃない?」
さっきまでは身体を動かしていたから気にならなかったけど、こうして座っていると、雨に濡れた身体が徐々に冷えはじめているのがわかる。
助けがくるまで、後どのくらいだろうか?
腕時計を見た。時刻は、もうすぐ十二時になろうというところだ。
おばあさんが炊飯ジャーをみるのはまだ先かもしれない。もしかして、今晩はパスタとかだったりして……。カンベンしてよ、あんな日本家屋でイタリアンはやめてよ。日本人なら米を食うでしょ。米を。
だいたい、なんだってこんな大事なときに携帯のバッテリーが切れちゃってるの? コレさえ生きていれば、あっというまに助けが呼べるのに。
「ゴホッ、ゴホッ」
神楽くんの咳は止まらない。彼が息を吸うたびに、気管支を通るヒューヒューという音が響いた。
「ちょ、ちょっと、ホントに大丈夫なの?」
「おかしいな、喘息の発作なんて」
神楽くんは背中を丸めてさらに咳込んだ。
「喘息? 喘息なんだったら常備薬とか持ってないの。普段、あんなに用意周到なのに」
「二年ぶりの発作だからね。……そうか、わかったぞ。そういうことか」
「なにがわかったの?」
「沙希さんが死んでから、喘息の発作は出なくなってたんだ。悠里ちゃんのお母さん役をやるために、沙希さんの霊が病気を治してくれたと思ってたんだけど」
それって、どういうこと?
悠里ちゃんのお母さんが死んで、悠里ちゃんの面倒を見ることを約束した神楽くんの喘息は治っていた。で、お母さん役を返上したから、また喘息がぶり返した。
つまり、約束を破った神楽くんに怒って、沙希さんの霊が病気を再発させたっていうの?
そんなの、ありえない。非常識すぎる。
でも、目の前で神楽くんが苦しんでいるのは現実だった。
「な、なにかわたしにできることないの? どうすればいい? 背中擦る? 暖かい方がいいの?」
居ても立ってもいられなくて、神楽くんに尋ねる。
「大丈夫……っていうか、こうなると何しても一緒だから」
彼は返事をするのも苦しそうだった。咳が止まると、今度はヒューヒューという音が聞こえる。神楽くんはまるで壊れたシュノーケルに吸い付くように必死で息を吸っていた。
あまりの苦しげな様子に話しかけるのも気の毒で、わたしはただ黙っているしかなかった。
薄暗い穴の中に、雨音と神楽くんの呼吸音だけが響く。
足先が冷たくなって、すっかり感覚がなくなっていた。でもそんなことよりも、今にも途絶えそうな神楽くんの息を思うと、心配で胸が潰れそうになる。
本当に大丈夫なんだろうか。イヤなニュースを思い出した。喘息の発作で、病院をたらい回しになった子供が死んじゃった話。
あとどのくらいで、助けが来てくれるんだろう?
助けが来たって、ここから病院までさらに時間がかかるはずだ。
なんで、こんなことになっちゃったの? わたしたちは、ただ悠里ちゃんの制服姿を見せにお墓参りに来ただけなのに。
もしかして、本当に幽霊のせいなんだろうか?
ありえない話だと思っていたけれど、神楽くんの苦しそうな呼吸を聞いていると、とてもこれが自然に起こる現象だとは思えなかった。まさか本当に沙希さんの幽霊が、お母さん役を放棄した神楽くんを懲らしめるために、こんな目にあわせているのか。
もし、それが本当なら、そんな……そんな理不尽な話はない。
「死んだ人相手に、ましてや悠里ちゃんのお母さんにこんなことは言いたくないけどねえ! ふざけんじゃないわよ、まったく!」
立ち上がって、丸い空に向かって叫んだ。
「そもそも小学生の男の子にお母さん役なんて、その発想自体からして間違ってんのよ! それに、神楽くんにお母さん役を辞めるように言ったのはわたしなんだから、呪うんだったらわたしを呪えばいいじゃない! なのに、か弱い神楽くんを標的にするなんて!」
足元で、神楽くんのか細い声がする。
「か弱いって……僕、そこまでじゃないと思うけど……」
「わかったら、今すぐ神楽くんを解放して、わたしを呪いなさい! この悪霊! 怨霊! 低級霊!」
さんざんの罵詈雑言を、いるかどうかもわからない沙希さんの幽霊に向かって浴びせかけた。
それでも神楽くんの呼吸はいっこうに楽にならないし、わたしに呪いはかかってこない。いや、今一番わたしを苦しめようと思ったら、神楽くんを責めるのが最も効果的ということなのかもしれない。
幽霊ごときに、なめられたもんだ。
言っておくけれど、わたしは好きな男子がいたぶられるのを指をくわえて見ているような星の下には生まれて来ちゃいないんだ。一年のときは入学式で新入生代表の挨拶をし、二年で学校案内パンフの表紙を飾り、三年の学習発表会では主役のスイミーを演じ、四年のときに書いた読書感想文が県知事賞を受賞、五年の鼓笛隊では総指揮を務め、六年で児童会会長に選ばれたこの須崎玲菜の実力を、ショタコンの低級霊にも思い知らせてやる。
ブーツを脱いで素足になった。濡れた地面は凍るように冷たい。でも、苦しげに咳き込む神楽くんを前にしてそんなことは言っていられない。
手足の指で土を掴むようにしながら、壁を登り始めた。




