08話 新学期、片耳だけ空けた距離③
「喋るの苦手」
聞こうと思えば聞けるのだろう。
ただ、なにをどう聞けばいいのか分からない。
興味があるのと、聞けることは別だ。
如月さんはオレの返事を聞いて、小さく笑った。
「そーでしたそーでした」
わざとらしく繰り返して、肩を揺らす。
(何がそんなに面白いんだ)
そう思うのに、やっぱりオレは聞けなかった。
別れ道にくる。
如月さんは軽く足を止めて、当然という顔で前を指さした。
「あたしこっちなんだ。松前くんあっちだよね」
(……なんで知ってる?)
口には出さず、目だけ向ける。
如月さんはその視線に気づいてふっと目を伏せて、
「何回か見かけたことあるんだよねー」
明るく言ってすぐ笑うけど、目は合わせない。
鞄の持ち手を握る指に、力が入っているようだ。
すぐに何事もない顔で笑って、
「ばいばい、また明日ー」
軽い調子で手を振って、如月さんは二歩下がる。
あっさりした別れ方だった。
オレはその場に立ち止まったまま、遅れて返す。
「……ああ」
すると。
もう背を向けかけていた如月さんが、振り返って距離を詰めてきた。
「ねぇ、なんかもっとさ」
(いや、近っ!)
お互いの息がかかりそうな顔の距離。
大きな瞳、艶やかな肌、高すぎない鼻筋、ふっくらとした唇。
すべてが近い。
「ちゃんと帰りのあいさつしないの? あいさつ大事でしょ?」
そんなに挨拶が大事なのか。
近すぎる距離にも、こっちが固まったことにも、気づく素振りがない。
目をそらそうとすると、如月さんの突き出した胸がくっつきそうに迫っていた。
思考が停止しそうになる。
耐えきれず、如月さんの肩へ手を伸ばした。
勝手に触れるのもまずいと思うが、頭がまわらなかった。
「近い」
ぐっと押して、どうにか距離をつくる。
あわてて手を離した。
「な、なによー」
如月さんは不満そうに、頬を膨らませて目を細めている。
(なんだ、その顔……)
「喋るの苦手でも、挨拶はちゃんとしなきゃダメだよ」
「……し、したけど」
「『ああ』だけじゃん」
言葉に詰まる。
如月さんの言う通りだ。
オレは、そういうのすら足りてない。
「もっとさ。ばいばいとか、またね、とか。そういうのがいい」
顔は拗ねたままだったが、声は真面目だった。
(そういうのでいいのか)
「……分かった」
「じゃあ、言ってみて」
うなずいてから、ひとつ息を吸う。
(普通のことだ)
自分に言い聞かせて、
「……ばいばい」
小さいが、ちゃんと声に出た。
如月さんはぱっと表情を明るくする。
(可愛い……)
一歩下がると、
「じゃあね! また明日ね!」
手を振って、背を向けた。
満足げに歩いていく。
しばらく背中を見送った。
距離が少しずつ離れていって、声をかける理由もない。
「……また明日」
もう聞こえない距離なのに、口に出していた。
(いや、明日も話しかけてくれるとは限らないだろ)
軽く頭を振って、オレもようやく歩き出した。
◇ ◇ ◇
その夜。
自室のベッドに座って、スマホをぼんやり眺めていた。
(……また明日、か)
その言葉だけが、やけに頭に残っている。
ただの別れ際の挨拶のはずだ。
なのに、妙に軽く流せない。
(明日も……話せるってことか?)
そんなことを考えて、期待しているみたいだと首を振った。
期待なんてしてない。
今日くらいで、もう十分だろう。
ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
(あの子は、たぶん誰にでもああなんだ)
自分にだけ近いとか、自分にだけ優しいとか。
都合よく受け取ってしまいそうになっている。
喋らないことを否定しなかった。
自分に歩幅を合わせてくれる。
隣の席に座ってくれる。
オレの前ですぐ赤くなる。
また明日って言ってくれる。
どれも整理できない。
全部が中途半端に引っかかる。
(オレじゃなくてもいいはずだ)
なのに、それでも嫌じゃない自分がいる。
その落ち着かなさに、しばらく眠れそうになかった。
◇ ◇ ◇
あたしはベッドにうつ伏せになって、足をぱたぱた動かしながら枕に顔を押し付けた。
「……やば」
声が漏れる。
さっきの帰り道。
距離を詰めすぎて、やさしく肩を押された感触。
そして、
『ばいばい』
あの、ぎこちない声。
(あれ、ずるいでしょ)
枕をぎゅっと抱きしめる。
あんまり喋らないのに、不器用なのに。
ちゃんと返してくれた。
それだけで胸の奥が落ち着かない。
嬉しいのに少し怖いという感覚も同時にある。
『喋る相手なら、オレじゃなくてもよくないか?』
そう聞かれて、答えられなかったこと。
(それ答えたら、見てたって言ってるようなものだし……)
去年の夏、あの時「嫌がってるだろ」と言ってくれた日から、ずっと見ていたこと。
あの場で言ったら、全部バレてしまう。
でも、言わないままなのは違うってわかってる。
理由があるのに黙っているのは、不誠実にも思える。
だけど、いまはまだただのクラスメイトだ。
伝えていい距離じゃない。
(ちゃんと、いつかは言いたい)
その「いつか」がどこなのかも分からないけど。
もっと近づけたら、話したい。
「連絡先……聞けなかったな」
スマホを手に取って、画面を見て何も開かないまま止まる。
聞こうと思えば、聞けた。
連絡先を聞けば、明日を待たなくても話せる。
もっと近づける。
でも、近づきすぎるのもよくないだろう。
とくに松前くんは、まわりと距離をおきがちな人だ。
『無理に言わなくていい』
『今じゃなくていい』
あたしが言いづらそうにしてると、一歩引いてくれた。
ベラベラ喋るくせに、肝心なことは答えないあたしを責めない。
他の人ならもっと、「なんでなんで?」って詰め寄ってくる。
松前くんにはそれがない。
一緒にいるとドキドキするのに、安心する。
枕に顔を深く埋めた。
(明日、もっと話せるかな)
◇ ◇ ◇
翌朝。
教室のドアの前で、足が止まった。
無意識に、自分の耳に触れる。
イヤホン。
昨日、如月さんに言われた言葉が頭から離れない。
『ずっとイヤホンしてたから、話しかけられなかった』
(……じゃあ、外せばいいのか)
そう思って、片耳だけ外した。
両方外すのは、まだ落ち着かない。
周りの声が全部入ってくるのは、正直きつい。
だから、片方だけ。
(……何やってんだオレ)
言われたから変えた。
これじゃあ、あの子に話しかけてほしがっているのと同じだ。
しかも今日も何かあるんじゃないかって、勝手に期待までしてる。
片耳を空けたところで、また声をかけられるとは限らないのに。
(……どうせ、いつも通りだ)
そう自分に言い聞かせて、扉を開けた。
教室のざわめきが、いつもより一段階大きく聞こえる。
椅子を引く音、笑い声。
片耳から直接入ってくる。
視線が、勝手に如月さんの席を探していた。
自分に呆れる。
(……いるかどうか確認してる時点で終わってる)
如月さんはまだ来てない、と思った瞬間だった。
「松前くん、おはよー」
振り向かなくても分かる、明るい声。
いつもなら音楽越しに薄まって届くはずの声が、今日は何にも遮られずに、はっきりと耳に残った。
後ろに如月さんが立っていた。
カバンを肩にかけ、少しだけ息を弾ませてる。
いつも通りの、整った顔。
「……お、おはよう」
不自然だけど、ちゃんと返せた。
如月さんはそれを聞いて、満足そうに笑う。
それから視線が一瞬だけ、外れているイヤホンに向けられた。
気づかれた、と思った。
でも如月さんは何も言わなかった。
代わりに、オレの制服の袖をくいっと軽く引いた。
「ねえ」
「……なに」
声が固くなる。
「今日のお昼、一緒に食べよ」
「……え」
意味の処理が遅れる。
確かに昨日、オレは一人で食べていた。
クラス替えがあってまだ二日目だ。
教室には、まだそういうやつは数人いる。
(クラス替え直後のぼっち救済枠か?)
その可能性がしっくりきてしまう。
一人で食べてるクラスメイトを放っておけない。
たぶん、如月さんはそういう子だ。
声をかけられたこと自体は、もちろん嬉しい。
だが。
「いや、無理……」
「え」
言った直後、如月さんのまぶたが一度、ゆっくり落ちる。
オレの喉がひくりと動く。
(傷つけた)
無理なのは、如月さんと昼を一緒に食べることじゃない。
大人数で、知らない会話に混ざって、箸を動かすタイミングも分からなくなって、かえって自分の居場所が分からなくなる、あの感じだ。
なのに今の言い方だと、誘ってきた本人を拒んだように聞こえる。
「いや、その」
如月さんは、袖をつまんでいた手をすでに離していた。
「如月さんが、イヤとかじゃない……大人数で食べるが苦手で……」
しばらく黙って聞いたあと、如月さんは首をかしげた。
「大人数?」
教室の奥で談笑してるグループへ一度目をやって、すぐにこっちへ視線を戻す。
「なるほど、そういうことか。ごめんね、説明不足で。あたしと二人で食べよって言ったの。じゃあ一緒に食べようね。松前くんは今日もお弁当?」
オレは反射的にうなずきかけて、止まる。
(……いや、待て)
まだ固まりきっていないクラスの人間関係。
その中で、美人で人気者の女子と目立たない男子が二人で昼を食べる。
さっき如月さんが見ていたグループが、ちらっとこっちを見てる気がした。
(これ、変な空気になるやつだろ……カラオケでも、イチャついてるとか言われてたのに)
そんな思考を知らない如月さんは、拗ねた声でくり返す。
「ねえ、お弁当かて聞いてるんだけど」
「……うん」
答えながら、別のことを考えていた。
(これ、断った方が良かったよな)
オレはきっと面白いことも言えない。
また気を使わせることになる。
でも、イヤじゃないと答えてしまっていた。
今さら引き返す理由も見つからない。
「グループ、急に抜けていいのか?」




