45話 イヤホン買いに、行かないって言ったのに①
屋外セットの撮影現場は、思っていたより騒がしかった。
スタッフさんの足音、機材が触れ合う金属の音、遠くから飛んでくる指示の声。
あたしはセットの中心から少し離れたところで、邪魔にならないように立っていた。
今日は初めてのコラボ撮影だ。
現場の雰囲気が悪いわけじゃない。
むしろみんな優しい。
ただ《初めて》だと思うと、笑顔の作り方が普段とずれている気がした。
隣にいた先輩が、顔をのぞき込んで声をかけてくれた。
「緊張してる?」
「あ……コラボ初めてで。迷惑かけないかなって」
自分でも、声が固いのが分かった。
先輩は軽く笑って、あたしの緊張をほぐすみたいに明るいトーンで言った。
「最初はそうだよね。私はねー、撮影前に好きな音楽聴いてる。気分あがっていいよ」
「音楽……」
その言葉で、思考が止まった。
あたしのスマホには、松前くんの歌が入っている。
最近のカラオケは、歌をそのまま録音できる。
前に二人で行った時、あたしはそれをこっそり保存した。
スマホに移してからは、ほとんど毎日、家で再生している。
外で聴こうとしたことだけはなかった。
聴いている時の自分の顔を、誰にも見られたくなかったから。
(でも、いま松前くんの声聞けたら……)
バッグからスマホを出した。
音量をできるだけ小さくして、イヤホンがない代わりにそっと耳へ押し当てる。
松前くんの歌が流れだす。
一瞬で、周囲のざわつきが遠のいた。
スタッフさんの足音も、笑い声も薄れて、耳に残るのは松前くんの声だけ。
張っていた肩の力が抜けて、呼吸がゆっくり戻ってきた。
音の向こうに、本人の姿が浮かぶ。
教室でぼそっと喋る姿。
視線をそらす仕草。
不器用に、短く返してくれる声。
その全部とは別の、音に乗って歌っている松前くん。
想像した瞬間、頬がゆるんだ。
普段の松前くんも、もちろん好き。
でも歌っている松前くんを知ると、別の好きが増えてしまう。
歌う時だけは、口を大きく開けてくれる。
普段は喋ってくれないから、声だってあんまり聞けないのに。
歌い出す前の、少し照れている松前くんまで浮かんできて、余計にダメだった。
「リサちゃんなに聴いてるの?」
先輩に呼ばれて我に返り、顔を上げた。
「ご、ごめんなさい。うるさくしちゃって」
「いや、ここ普通に騒がしいから気にならないよ。カバー曲でしょ? 誰が歌ってるのかなって」
誰が。
耳の奥には、まだ松前くんの声が残っていた。
熱が顔まで駆け上がった。
誰が歌っているのかを聞いただけなのに、顔を赤くしているあたしを、先輩が不思議そうに見ている。
「いい声だから誰が歌ってるのかなって」
「クラスの……と、友達です」
スマホを見つめたまま、どうにか絞り出した。
「え、歌うま。なに、彼氏?」
「ち、違いますぅ」
声が、明らかに上ずっていた。
先輩は楽しそうに笑った。
「好きなんだー。まっさきにそれ聴くなんて可愛いじゃん」
「や、あの……なんていうか」
うまく説明できない。
そこへ、別の先輩が通りかかった。
「なに、なんの話してんの?」
「リサちゃんの恋バナ。好きな男の子が歌ってくれたやつ録音して聴いてるんだって」
「うそ、可愛すぎ」
二人の声が弾んで、場が一気に明るくなる。
その中であたしは、固まって動けなくなっていた。
◇ ◇
撮影が終わった控室。
テーブルに置かれたあたしのスマホからは、松前くんの歌が流れていた。
「少しだけ聴かせて」と先輩たちに言われて、断りきれなかった。
最初の一音から、音程が正確に置かれる松前くんの声。
立ち上がりにブレがなく、サビに向かっても軸が揺れない。
スピーカー越しでも、ざわつきの中でも、声が濁らずに耳に届く。
「これ高校生が歌ってるの? 原曲超えてるじゃん」
「ね、ここの英語の発音とかよすぎる」
リズムに乗って肩を揺らす先輩の隣で、あたしは身を縮めていた。
すごいと褒められるのは嬉しい。
問題なのは、顔の熱が全然引かなくて、うまく返事ができないことだった。
歌が流れている間ずっと、心臓の音の方がうるさかった。
(やばい、これ普通に耐えられないかも)
頭に浮かぶのはカラオケの部屋。
あたしに向かって歌ってくれていた、あの場面。
「イヤホンとかでちゃんと聴いた方がいいよ、全然違うから」
先輩の言葉に、あたしはぼんやりしたまま頷いた。
(イヤホン……イヤホンか。うん、松前くんの声を聴くなら、いいやつがいるよね)
「買います」
口が勝手に動いていた。
「うんうん。その子と一緒に買いに行ったらいいよ」
「誘っても、あんまり……断られること、多くて」
ぽつりと出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。
先輩が軽く驚いて、すぐに笑う。
「照れてるんだって。高校生でしょ? 男の子ってそういう時期だよ」
「あー、確かに。可愛い子に誘われて、緊張してるんだって」
照れてる。
確かに。
「そういうのは、言われたことあります。綺麗だから、緊張するって」
先輩が嬉しそうに身を乗り出した。
「やっぱそうじゃん」
「脈ありすぎじゃん。誘った方がいいよ、絶対」
「でも……」
(脈、あるかな……)
考えようとしても、うまくまとまらない。
「向こうが折れるまで、グイグイいったほうがいいよ」
(グイグイいく子、好きかな……)
「男の子ってさー、女の子から来てくれた方が嬉しいんだよ」
「そうなんだ……」
「可愛いって言ってくれるの?」
「……はい」
いっぱい言ってくれる。
普通に、当たり前みたいに。
思い出しただけで、心臓がまた少し騒がしくなった。
「それむこうも好きじゃん」
(好き?!)
「待ってるだけじゃ進まないよ?」
(確かに)
《どこ》に進むのかは、分からないけど。
「のんびりしてると取られちゃうよ? 歌聴いただけで惚れそうだもん」
(それはダメ!)
取られるという言葉が、やけに残ってすぐには消えなかった。
あたしはスマホをぎゅっと握りしめたまま、うつむいた。
(のんびりしてられない)
◇ ◇ ◇
休み時間の教室は、イヤホンをしていてもうるさかった。
窓際のオレの席だけ、その騒がしさから少し切り離されている。
いつも通り、ぼんやりスマホを眺めるだけの時間だった。
足音が近づいてくる。
顔を上げなくても分かった。
視界の端で、髪が肩の上で軽く揺れて、立ち止まる直前に遅れて落ちる。
声をかける前の、息を吸う音が聞こえた。
「ねえ、松前くん」
如月さんが、オレの机の横に立っていた。
「なに」
「あたしのスマホ、イヤホンさすとこないんだけど。どうやって歌聴くの?」
「……Bluetoothで無線イヤホン」
「ぶるーちゅーす……聞いたことある」
オレの喉が、ひくっと動いた。
「……っく、やめろ」
「なに?」
(ブルーまでは合ってる。チュースはどこから来た)
「いや……」
今さら言うまでもないが、如月さんは普通に可愛い。
見た目が整っていて、声が柔らかくて、首を傾げるだけで視線が集まる。
そんな子が、何でもない顔で話しかけてくる。
それが、オレにはちょっと荷が重い。
オレみたいなやつが如月さんと気軽に話していると、周りが変な基準を作る。
あいつと話しているなら、自分もいける。
そんなふうに雑に見られる入口に、オレがなってしまう。
「線ない方がいくない? 松前くんはなんで線あるやつ?」
(線じゃなくてコードだろ)
口には出さなかった。
出したところで説明が増えるだけだ。
「……音質。いや、値段の問題」
「高いの?」
「数千円の有線イヤホンの音質で聞きたいってなったら、無線だと数万するから」
「えっ、そうなんだ。それだとスマホかえたくなるね」
「いや、ポタアンとかあるけど……」
「ぽあたん? ぽあたん?」
発音が難しいのか、アクセントを変えて繰り返していた。
(間違ってるのは発音じゃないだろ)
笑いそうになって、すぐ飲み込んだ。
ここで笑ったらバカにしたみたいになる。
オレは、如月さんが持っているスマホの下側、充電ケーブルをさす場所を指先で示した。
「ここからイヤホンさせるように変換できる」
端子を見てほしいだけなのに、如月さんはスマホを動かさないまま顔の方を近づけてきた。
「へー」
近い。
オレの視界には如月さんの横顔がドアップで入ってくる。
素直なだけだ。
でも、その素直さが距離を曖昧にする。
「まあ、ちゃんとしたやつ買おうとするとやっぱり高い」
「あー、そうなんだー。いろんな方法あるんだね。どうしよっかな」
顔を離しはしたけど、身体はまだ机に寄ったまま。
この近さを、本人はたぶんまったく気にしていない。
「音質違うって言っても、そこまで悪いわけじゃないから。普通に無線でいいと思う」
「そうなんだー。電気屋さん行かなきゃ」
独り言、深い意味はなさそうだった。
イヤホンの話をして、音質の話をして、ポタアンを間違って覚えて、それで終わるはずだった。
「電気屋さん行きたいなー」
その言葉で、先が読めてしまう。
さっきまでの会話は楽しかったし、頼られるのも悪くなかった。
けれど、この流れには嫌な予感がした。
如月さんが身を乗り出した。
上体が前に出た分、夏服の胸元が目の前に来る。
一瞬、視線の置き場を失った。
「あたし分かんないから、教えてくれる人きてほしい」
「電気屋なら店員が詳しいから。駅前の電気屋いいぞ、知識あるし押し売りもない」
自分が行く前提を消すための説明だった。
しかし、如月さんが声を弾ませる。
「松前くん一緒に」
「行かない」
食い気味に返した。




