43話 野外活動・当日、オレだけ許されるはずがない③
「いいよー、別に」
あたしは笑いながら言った。
松前くんが男の子だということは、もう知っている。
カラオケのときも、そのあとも、何度も意識させられてきた。
無表情で、言葉が少なくて、いつも一歩引いているように見える。
それでも、時々ちゃんと男の子の目をしている。
だから、見ないと思ったから壁にしたわけじゃない。
見られてもいい相手だと思ったから、松前くんに頼んだ。
そのくらいの線引きはできていた。
ただ、顔を上げたらちょうど目が合ってしまうところまでは、ちょっと想定外だったけど。
どう反応していいか分からない。
ここで気まずくなるのは絶対イヤだ。
松前くんは、こっちに顔を向きかけて、途中で止めた。
「別にじゃなくて。ちゃんと怒っていい。殴ってもいいし……」
「えー、怒ってほしいの? まぁ、見てないって嘘つかれてたら怒ったかな」
「なかったことにはしない」
「真面目だね」
その真面目さに、少しだけ困った。
無防備な位置に入ったのはあたしからなのに、松前くんは自分だけが悪いと思い込んでいる。
(仕方ないなぁ)
松前くんは、なんでも重く受け取りすぎるところがある。
ここはしっかり元に戻しておかないと、あとから一人で反省会とかしてそう。
あたしは軽い調子で言った。
「松前くんも男の子だもんね。ちゃんと分かってるから気にしなくていいよ」
間があって、松前くんが低い声で言った。
「そういう冗談もほどほどにしないと、また変なこと言うやつ出るぞ」
「誰のこと?」
「大したことじゃない」
「ふーん、まあいいけど」
松前くんはまたこっちを見かけて、すぐ顔を逸らした。
眉間を指で押さえている。
「早く服着てくれないか」
「え、あ。下着も濡れてるから乾かしたくて」
「だから、下着も濡れてるとかわざわざ言うな」
「ごめんごめん」
松前くんが、呆れが混じった短いため息をついた。
(よかった、戻った)
◇ ◇ ◇
班の片づけも終わり、休憩時間になった。
木が多くて人気のない場所で、如月さんは木の根元にもたれかかったまま、寝息を立てていた。
顔が横に傾いて、髪が頬にかかっている。
その姿をオレは少し離れた場所で見ていた。
(楽しみで夜寝れなかったんだろうな)
如月さんが起きないように、周りに気をつけておくつもりだった。
そのとき、足音がした。
池沢だった。
迷わず如月さんの前まで来て、しゃがみ込む。
「可愛いなおい、同じ班で良かった」
「おい起こすなよ」
「彼氏ヅラすんな」
「してねぇ」
「ちょっと近くで見るだけだ」
池沢は如月さんの眠っている顔を覗き込むように、すぐ近くまで身を寄せた。
「近すぎだ……っ」
止めようと、反射的に足が動いた。
あと数歩の距離。
如月さんの顔を覗き込むために、片膝をついて前のめりになっていた池沢が、バランスを崩した。
がくっと前につんのめり、如月さんに覆いかぶさるように倒れ込む。
「ひっ……!」
如月さんの短い悲鳴。
直後、ドッという鈍い音がした。
池沢の体が後ろへ吹き飛んだ。
みぞおちのあたりに蹴りをくらわせた如月さんの姿。
すべての力を込めた一撃だった。
如月さんは息を荒くしながら体を起こす。
乱れた髪、驚きで揺れる瞳。
胸元が大きく上下している。
「悪い、間に合わなかった」
「うわぁーん」
如月さんが走って、勢いよくオレに抱きついてきた。
「ちょっ」
怖がって飛び込んできた相手を、突き放せるわけがない。
オレは両手の行き場を失ったまま固まった。
背中へ回った如月さんの腕に、ぎゅっと力が入った。
(……当たってる)
上半身にやわらかい感触が遠慮なく押しつけられている。
(オレも男なんだけど……)
さっきの『松前くんも男の子だもんね』は何だったんだ。
男だと分かっているなら、こんな体の預け方はしてこないだろう。
(やっぱり兄とか、そういう感じなんだな)
オレは両手を宙に浮かせたまま、ずっと下ろせずにいた。
だんだん、如月さんの呼吸がゆっくりになってきた。
体の震えももうない。
それでも、如月さんは離れようとしなかった。
「落ち着いたか?」
そう聞くと、如月さんの腕に、またぎゅっと力が入った。
「うん、でもこのままがいい」
「ダメだろ……」
「あたし怖かったんだけど?」
返す言葉が出てこない。
怖かったのは本当だろう。
近くにいたのに、オレは止められなかった。
水をかけられて、前髪まで崩して、そのうえ怖い思いまでして、如月さんにとっては散々な一日だ。
如月さんが満足するまで、このままでいるしかない。
◇ ◇ ◇
荷物をまとめていると、背後で足音が止まった。
振り返ると、池沢が立っていた。
いつもの軽い調子がない。
「……松前」
「なんだ」
「如月さんのことなんだけど……今、俺のこと完全に避けてる。さっきから謝ろうとしてるんだけど、近づくとすぐ離れるし、目も合わせてくれない」
「……」
「このままだと、学校戻ってからもずっとあの感じだろ。お前から、なんか言ってくれないか」
「オレが?」
「お前なら話せるだろ。俺が近づくと逃げるしさ。正直、詰んでる。これはさ、距離縮めようとかじゃなくて……ただ、印象悪くしたくないだけっていうか」
池沢が最初から近すぎたのは事実だ。
眠っている如月さんに、あの距離まで顔を寄せた。
驚いて、怖がって、泣きかけた。
(そうなるのも仕方ない)
ただ、引っかかることがある。
如月さんは、オレがさっき着替えを盗み見ても怒らなかった。
あの人は、人前で騒がず、相手を責めすぎず、笑って流す。
困った顔や照れた顔はしても、最後には平気そうな顔をする。
如月さんはそういうことができる。
でも、池沢には違った。
(如月さんはなにを許して、なにを拒むんだ?)
いや、それはいま考える場面じゃない。
池沢は、謝りたい相手に近づけず、どうにもならなくなっている。
こいつのことは好きじゃない。
余計なことばかり言うし、距離の取り方も雑だし、できれば関わりたくない。
だけど今のこいつは、オレに頼むくらいだ。
(本気で困ってる)
謝りたいという言葉にも、嘘はなさそうだった。
(このままだと、如月さんも気を張ったままだ)
「……一回だけだぞ」
池沢が顔を上げた。
「それでダメなら、あとは知らない」
「助かる」
助けるつもりはない。
目の前で起きている面倒ごとを、片づけたいだけだ。
◇
離れた場所で、如月さんがゴミ拾いをしていた。
足音に気づいて、こっちを見た。
「松前くん」
弾んだ声だった。
けれど視線がすぐオレの後ろへ動いた瞬間、体がぴくりと固まった。
無意識なのか一歩下がり、ゴミ袋の口を握る指には力が入っている。
口には出さない。
でも顔には出ている。
「……謝りたいって言ってる」
「いらない」
即答だった。
視線は地面に落ちたまま。
「如月さんがそれだと解決しない」
「許す気ないもん」
「……如月さん、オレには平気で近づくだろ」
その一言で、如月さんの動きが止まった。
顔を上げて、こっちを見た。
「だって、それはぁ……」
言いかけて、一度止まった。
声ははっきりしているのに、震えを押し殺しているように聞こえた。
「男と女は違うじゃん。力も体格も、あたしはかなわないんだから、あんなんされたら普通に怖いよ」
その言葉は、思ったより重かった。
オレは如月さんなら、話せば分かると思っていた。
けれどそれは、男の側から見ていた話だ。
目を覚ました瞬間、逃げ場のない距離に男がいたときの怖さ。
力で押し返せない相手がのしかかってきた感覚。
オレはそれを分かっていなかった。
想像はできる。
でも同じ場所には立てない。
少なくとも今の如月さんに、謝る側の都合で気持ちの整理を求めるのは違う。
池沢を見た。
「怖かったって言ってる」
返事はなかったが、オレは続けた。
「今は無理だと思う。謝りたいのは分かるけどな。謝るのはいいけど、タイミングの方が大事だ。相手が聞ける状態じゃなきゃ意味ない」
池沢は、如月さんではなく、オレを見ていた。
オレは短く、はっきりと伝えた。
「今じゃない」




