33話 お礼の映画、手は握り返せるのに①
カラオケの部屋を出て、受付を抜け、自動ドアの前まで来た。
外へ出ると、午後の光がずいぶん低くなっていて、四時を回ったところだった。
(……終わりか)
約束は、ここまでだ。
歌も歌ったし、飯も食った。
それなのに、引っかかるものがあった。
今日、ちゃんとできるかどうか、ずっと気を張っていたはずだ。
なのに今は、まだ終わってほしくないと思っている。
一歩目が踏み出せないでいると、如月さんの軽い声が隣から飛んできた。
「このあとどうするー?」
意味の処理が遅れた。
今日の流れはもう終わったつもりだったから、『このあと』がある前提の言葉が、すぐには頭に入ってこない。
如月さんを見る。
さっきまでと同じ顔と調子で、次を聞いているだけだ。
(……終わりじゃないのか?)
そこで初めて、自分だけが勝手に区切ろうとしていたことに気づく。
「行きたいとこある?」
「どこでもいい」
言い方が固くなった。
如月さんはそれを気にした様子もなく、スマホを取り出す。
画面を見ながら考え込んで、何かを迷っているのか、口を開く前にこちらを見てきた。
「映画でもいい?」
「うん」
返事はほとんど即答だった。
ここで変に悩んでも、出てくる答えは同じだ。
行きたい場所を聞かれても、すぐには思い浮かばない。
自分がどこかへ行きたいと言って、趣味が合わなかったらどうする。
微妙な反応をされたら、その時点で全部なかったことにしたくなる。
(だったら、最初から如月さんが行きたい場所の方がいい)
それは自分で決めるよりずっと楽だ。
任せてしまうことへの後ろめたさは少しあるが、断る理由にはならない。
如月さんは続けた。
「怖いのでもいい?」
「ホラー?」
「う、うん。なんの確認? あたしがホラー見るの意外?」
こちらの顔をうかがう目をしていて、声のトーンも不安そうだった。
「オレが見たいのに合わせてくれようとしなくていいから」
「いや、違うけど。普通に好きだよ、ホラー」
女の子がホラーを好きでも、おかしくはない。
でも、今日のカラオケはオレに合わせたものだった。
「如月さん、気ぃつかうタイプだし」
「違うって、ほんとに好きなの」
食い気味に言葉を重ねる。
そこから、如月さんは止まらなかった。
「スティーヴン・キルンの原作のやつがとくに好きで。ペットグレイブとか霧とか、見た後にちょっとトラウマ気味になる感じのとかいい」
オレは口を挟まなかった。
「あとあれ、ファイナルデスのシリーズ。繰り返し見ちゃうんだよね。何回見てもハラハラしちゃう。シリーズ物って前作とつながりがあったりするからそこに気づくと余計に面白い」
無意識にうなずきながら聞いていた。
「あと低予算系の密室スリラーも外せない。お金かけずに面白いってすごいよね。いろいろ見てるとさ、見せ方とかも気になってきちゃってー……」
如月さんは、はっとして息を止めた。
それから、顔が赤くなっていく。
オレに合わせているわけじゃないと言いたかっただけのはずだ。
なのに、原作の話から入って、シリーズの話をして、低予算スリラーまで広げた。
途中からはもう、好きな映画の話をしているだけだった。
恐る恐るこちらを見てくる目に、焦りがにじんでいた。
オレは思ったことを、そのまま口にした。
「……楽しそうだった」
如月さんは耳まで赤くなって、拗ねたみたいに視線を外したまま、声を落として返してくる。
「……そりゃ、好きだし」
「じゃあ、ホラーにするか」
「松前くんはほんとにホラー好きなの? 怖くてあたしに抱きついたりしない?」
「しない」
「残念」
残念。
確かにそう言った。
言い方は軽くて、冗談みたいな声だった。
たぶん、流していいところなのだと思う。
なのに、頭から離れない。
(……冗談か?)
如月さんは、男をあおるようなことは言わない人だ。
(いや、でも本気で抱きつかれたいって意味ではないだろ)
如月さんはもうスマホで上映時間を検索し始めていた。
(言うだけ言って、普通に次に行くなよ……)
こっちだけが置いていかれる。
軽い冗談として流せばいいのか、本音が混ざっていると受け取ればいいのか、判断がつかない。
けれど、如月さんの横顔はもう映画の時間を探す顔になっていた。
「ちょうどいいのあった。四時半からだって」
スマホをしまうと、如月さんの手がこっちへ伸びてきた。
指先が、オレの手に触れる。
離すか、つなぐか。
判断が遅れて、頭の中でいくつもの考えが同時に浮かぶ。
前にも一回、つないだことはある。
別に、嫌じゃない。
ここでわざわざ避ける方が変だ。
(……拒む理由がないなら、いい)
少しだけ息に詰まって、手を受け入れる。
そのまま並んで歩き始めた。
◇ ◇
映画館に着くと、如月さんが当然みたいに財布を取り出した。
オレが半歩前に出ようとした瞬間、如月さんが一歩横にずれて、窓口の前に体を入れてくる。
なめらかな動きで、オレの出る場所がなくなった。
「如月さん、また払う気か」
「お礼したいし」
「お礼ならオレがするべきだろ、弁当とかの」
「でも松前くんのは親のお金」
正論だった。
オレが出す金は、結局は親からもらったものだ。
オレも正論で返す。
「自分で働いた金は、自分のために使うべきだろ」
「うん、使ってるよ? 松前くんと遊びたいもん」
如月さんは勝ち誇った顔で笑った。
(……負けた)
自分のために使っている。
その使い道がオレと遊ぶことなら、もう返す言葉がない。
「……ありがとう」
「どういたしましてー」
如月さんは、お礼の言葉だけで満足そうにしていた。
◇ ◇
シアターの中は、想像よりずっと暗かった。
通路の足元だけが白く光っていて、人の輪郭がぼんやり浮かんで見える。
土曜日だからか、ホラー映画なのに客はかなり多い。
(映画館で見るの、久々だな……)
足を止めて、周りを見回す。
天井は高く、内装は黒と赤で統一されている。
壁際には間接照明が埋め込まれていて、シアター全体がホテルみたいに重厚だった。
座席も妙にでかい。
背もたれは高く、座面は柔らかそうで、ひじ掛けも幅広い。
前の席との間隔もかなり空いていて、足を伸ばしてもぶつからなさそうだ。
(……最近の映画館って、こんなんなのか)
スクリーンも、やけに大きく見える。
オレが貸したパーカーの前を押さえながら、如月さんが腰を下ろす。
その拍子に、スカートのすそがパーカーの中へ入り込んだ。
指先でそれを引っ張り出して、パーカーのほうをそっと整える。
座っただけの動きなのに、やけに女の子っぽくて、気づいたら目で追っていた。
如月さんはこっちを見て、座面をぽんぽんとたたいた。
「ここどうぞー」
「……二人掛け? 最近の映画館はこうなのか」
「カップルシートだから。広くていいでしょ」




