32話 お礼のカラオケ、君に届ける歌とオレに届く歌④
いくつかの曲を歌い終えた頃、喉にちょっと違和感があった。
別に、その程度だ。
「ご、ごめん。歌わせすぎた? 休憩する?」
如月さんが心配そうにのぞき込んでくる。
オレはマイクをテーブルに置いて、息をついた。
「じゃあ、ちょっと休む」
実際は、そこまで疲れているわけでもなかった。
コーラを一口飲んで、それから何気ないふうを装って言う。
「次は如月さんで」
「恥ずかしいから無理だよ」
「気にしすぎ」
「気にするの」
すねた声だった。
如月さんは、タブレットのほうを見ようともしない。
だけど、オレも引かない。
回りくどく言うのが面倒になった。
「悪い、休憩は半分ウソ。もう一回聴きたかっただけ」
如月さんが好きな曲を、さっき自分の前でちょっと恥ずかしがりながら歌った。
そのこと自体が、なんかよかった。
歌詞を追ってせわしなく動く目も、音を外した瞬間に赤くなる顔も、それでも最後まで楽しそうに歌いきるところも。
(だから、もう一回聴きたくなった)
◇ ◇
「……え?」
声は出たのに、反応が遅れた。
松前くんは表情ひとつ変えないまま、グラスのコーラを一口飲んでいる。
特別なことを言った自覚すらなさそうだ。
(なにそれ、ずるいんだけど)
松前くんは基本、受け身な人だ。
自分から何かを頼むことなんて、ほとんどない。
そんな人が、『もう一回聴きたかった』と言った。
それはあたしにとって、求められているという実感だった。
(そんなの嬉しいに決まってるじゃん)
顔が熱くなって、あわてて視線をテーブルに落とした。
「歌うのは楽しそうだったから……ダメか?」
松前くんは追い打ちをかけてくる。
あたしだって、下手なだけで歌うこと自体は好きだ。
でも、まわりからは完ぺきに見られることが多いから、下手なことはクラス会でも隠していた。
そんなあたしに、松前くんは『下手でもいいから歌って』とは言わない。
『楽しそうだったから』と言ってくる。
あたしの楽しいを、一緒に楽しもうとしてくれてる。
悔しいけど、その言い方は断れない。
うつむいたまま、息を吐く。
「……もう」
マイクを見て、松前くんを見て、もう一度マイクを見る。
そして、ぽつりと言った。
「あと1曲だけだからね。ほんとに」
タブレットの上で、指を動かす。
いつもなら、こういうときは流行りの曲とか、みんなが知っているノリのいい曲を選ぶ。
そのほうが下手でも場が盛り上がるから。
でも、いま指が向かっているのは、まわりに合わせるための曲じゃない。
本当に好きな曲。
松前くんの前なら、こっちのほうがいい。
(これ歌いたい)
そう思った。
「……じゃあ、これ」
入れたのは、古いバラード。
イントロが流れ始めて、松前くんのほうをうかがう。
表情は変わらないけれど、聴く姿勢だった。
前に向き直って、息を吸う。
最初のフレーズは、さっきより声が素直に出た。
緊張しているはずなのに、息継ぎの場所で迷わない。
歌詞も、体が覚えている。
サビ前で声が揺れそうになったけれど、すぐに立て直せた。
小さい頃からずっと歌ってきた曲だから。
楽しかった。
曲が終わって、最後の音が消えた。
「……歌い慣れてるな、一番好きな曲か」
低い声でさらっと言われて、固まった。
(え、なんで分かるの)
さっきより上手いとか、良かったとかじゃない。
昔から歌ってきた慣れを、涼しい顔で拾ってきた。
嬉しい。
でも、それ以上に恥ずかしい。
(めちゃくちゃ見てくれてた)
あわてて口角を上げる。
「そ、そうなの。ママが好きな歌でね、昔から歌ってたの」
声は上ずっていた。
歌い終わったせいにして、ごまかしたい。
「ちょっと喉乾いた」
マイクを置いて、アイスティーの入ったコップに手を伸ばした。
◇
如月さんのコップの表面には、水滴が浮いていた。
指先が小刻みに震えている。
一口飲んだ瞬間、コップが滑った。
「あ」
間に合わない。
びしゃっ。
液体が跳ねて、如月さんの上半身に広がった。
「つめたっ」
如月さんが声を上げる。
「あー、やばい。奥まで入った」
あわててカーディガンを脱いだ。
ぬれた薄い布が肌に張り付いていて、いつもより体のラインがはっきり分かる。
(いや、如月さんが大変なのにどこ見てるんだ)
視線をどこに置けばいいのか分からない。
天井、テーブル、壁。
目が何度も行き来して、完全に挙動不審だと気づく。
余計にまずい。
「拭くもの……」
遅れて、備え付けの箱ティッシュを差し出した。
「ありがとー」
如月さんはそれを受け取ると、キャミソールのすそを持ち上げた。
そこから手を入れて拭き始める。
(なにしてんだ)
視線を逸らしたつもりが、視界の端に入ってくる。
(いや、見るな)
理性でどうにかなる状況じゃない。
「……如月さん」
低く名前を呼ぶ。
「ん?」
如月さんの手が止まる。
「オレのでイヤじゃなければ、パーカー貸すけど」
如月さんは自分の服を見下ろして、それから困ったように笑った。
「汚れちゃうからいいよぉ」
「汚れてもいいから言ってる」
「でも、こぼしちゃったあたしが悪いんだし」
一度、息をついてから言った。
「オレが困るんだって」
「困る?」
「さっきから目のやり場に困る」
如月さんが瞬きをして、それからまた自分の服を見下ろした。
(……しまった)
これは、見たって言ったことになってる。
「あ」
如月さんの顔が、一気に赤くなった。
見ないようにしていたのに、勝手に視界に入ってきただけだ。
でもそれを言うと、やっぱり見たという自白だ。
会話が途切れた。
如月さんは、こっちを見ないまま、ぼそっと言う。
「見なきゃよくない」
それで済むなら困ってない。
話としては正しいけど。
「見るなとか無理だろ」
言ってしまってから、さらにまずいと気づく。
「だから、早く隠してくれないと困る」
如月さんは返事の代わりに、両手で顔を押さえた。
◇
(え! なにそれ! なにそれ?!)
『見るなとか無理』って言った。
見ないようにしても、見ちゃうってこと。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
カーディガンを脱いだせいで、肌の出ている部分が多い。
そのうえ服はぬれているし、下着はくっきり透けている。
そんなところまで見られていたと思うと、壁でいいからめり込みたい。
(なのに。う、嬉しいって思っちゃうの。ほんと何っ?!)
見られて平気なわけじゃない。
でも、目が離せなくなるくらい、松前くんがあたしを女の子として見てくれていたのだと思うと、嫌じゃない。
ちらっと、松前くんを見る。
いつもの無表情。
でも、目が泳いでいるし、耳も赤いし、たぶん自分が何を言ったのか処理しきれていない。
余裕がなくて、正直で、そこがちょっとよかった。
(松前くん、男の子だ)
当たり前のことなのに、今になって急に実感がわいてくる。
いつも静かで無表情で、こっちが近づいても大体は固まるだけ。
男の子だとは分かっていた。
(めっちゃ男の子じゃん……!)
意識した瞬間、耳から火が出そうになった。
(どうしよどうしよどうしよ! え、今日なんかある?!)
今日は会ったときからずっとそうだ。
可愛いって言われて、『もう一回聴きたかった』なんて言われて、そのうえ『見るなとか無理』。
嬉しい。
恥ずかしい。
困る。
それなのに、このまま見ていてほしい気もする。
そんなことを考えた自分に、頭を抱えたくなった。
(いやいやいや、変なこと考えちゃダメ!)
これ以上このままだと、絶対に変なことを言う。
だから、顔を押さえたまま、どうにか声だけ絞り出した。
「……じゃあ、借ります」
松前くんは何も言わずに、パーカーを脱いだ。
指のすき間から、袖から腕を抜く動きを目で追ってしまう。
(そうやって脱ぐんだ)
とか思ってしまった。
「……ん」
「ありがと」
差し出されたパーカーを受け取って、ためらう。
(松前くんが着てたやつ)
ぬれたキャミソールの上から、ゆっくり腕を通す。
布が触れた途端、ひやりとしていた肌がやわらいだ。
(……あったか)
パーカーは、思っていたよりずっと大きかった。
身長は松前くんとそんなに変わらないはずなのに、肩の位置が一段下がって見える。
(これ、男の子の服だ)
指先は袖に半分隠れて、すそも余っている。
袖口をつまむと、指先まで布の中に埋もれた。
温もりがほんのり残っていて、松前くんのにおいもする。
(う……これ、松前くんに抱きしめられてるみたい)
そこまで考えて、顔の熱がまた一気に上がる。
(違うから! 服だから! ただの布! 松前くん本体じゃないから!)
「……借りるね」
パーカーの前を押さえながら、ソファに座った。
太ももの上にふわっと布がたまった。
袖をもう一度だけ、きゅっと握る。
(……これ、返すのやだな)
自分で自分に待ったをかけた。
(いや。あたしが困らないようにって貸してくれてるのに、その考え方はダメでしょ)




