26話 平日の午後、お邪魔してます③
(詰んでるだろこれ)
下着を持ったまま身動きが取れなかった。
置くタイミングを完全に失っていて、戻すのも不自然、持ち続けるのはもっとまずい。
視界の端で如月さんが固まっている。
オレは、あきらめたように息をつく。
「……すまん」
ゆっくりと下着を差し出した。
如月さんがはっとしたように動いて一気に近づいてくる。
「ごめん!! ほんとごめん!!」
急いで回収して両手で抱え込んだ。
顔も耳も真っ赤だった。
「あ、洗ってる! 洗濯したから!」
オレは、口を開きかけて止まった。
ソファに放置されていた時点で説得力がない。
『洗濯したとかじゃなくて』と言いかけたけど、如月さんはたぶん《使ったあとじゃないからセーフ》という意味で言っている。
でも問題は清潔かどうかじゃなかった。
男の前に下着が置きっぱなしだったこと。
それを自分が拾って手に持ったまま、細かいところまで見てしまったこと。
淡いピンク、細かいレース、意外と可愛いデザイン。
見ようと思ったわけじゃないのに目に入り、入ったら認識する。
しかも相手は如月さんで。
だから「洗ってる」なんて情報までくると、余計に意識する。
こんなの口にしたら終わる。
如月さんもたぶん無理だし、自分も無理だ。
「……気にしてない」
それだけ返した。
如月さんの腕の中へ抱えたままの下着。
紐やレースの端が指の隙間から出ていて、隠しているのに全然隠せていなかった。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
如月さんは早口で言って、逃げるみたいに廊下の奥へ走っていく。
ばたばたと慌ただしい足音が遠ざかって、小さくバタンとドアが閉まった。
静かになったリビングで、オレはソファに深く沈み込む。
「……ほんと無防備すぎるだろ」
自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
天井を見上げて、ため息をつく。
さっきまで手の中にあった淡いピンクが、まだ頭に残っている。
(……如月さん、ああいうの着けてるのか)
考えた瞬間、反射みたいに顔をしかめる。
だめだ。
想像するな、と腕で額を押さえた。
男を家へ上げて、二人きりで、下着まで放置して。
如月さんは自分がどれだけ危ないことをしているのか、わかってない。
しばらくして、そろそろと如月さんが戻ってきた。
「お、お待たせー」
さっきより落ち着いた声だったけど、顔はまだ赤く染まっていた。
「……ん」
オレは何事もなかったみたいに短く返す。
「あ」
如月さんは、さっき飲み物を渡さずに逃げたことに気づいたのか、動きが止まった。
ごまかすようにグラスを差し出した。
「えっと、コーラです」
(……なんでコーラあるんだ)
オレが好きな飲み物。
如月さんは口の中が痛くなるからと、炭酸は飲まないと言っていた。
それなのに、差し出されたグラスの中身はコーラ。
オレを家に呼べたとき用に置いていた、なんてところまで考えてしまった。
(……いや、ない)
来客用か、たまたま家にあっただけだろう。
そんな都合よく、自分用に用意されているわけがない。
でも、たまたま家にあったのだとしても。
(……そういうの、覚えてくれてるのか)
自分は「なんでもいい」と答えたのに、如月さんはお茶でも水でもなくコーラを選んで持ってきた。
グラスを受け取り口をつけると、炭酸の刺激が喉へ抜けて、少しずつ気分が落ち着いてくる。
如月さんが静かに言った。
「さっきの、ほんとにごめんね」
「……別に」
如月さんは迷うように視線を動かしたあと、オレの隣へ腰を下ろした。
ソファが沈んで、肩が触れるほど近い。
(……くっつくな)
そう思うくせに、離れろとは言えなかった。
如月さんが横目でこちらを見て、首を傾げる。
「晩御飯、なに食べたい?」
「あるものでいい」
「あるもの?」
如月さんはきょとんとする。
(……手料理じゃないのか?)
この家に来た時点でなんとなくそう思っていた。
「あー」
如月さんが声をもらす。
気づいたらしい。
「とくに準備してなかったから、大したもの作れなくって。出前にしようかなって思ってたんだけど」
「大したものじゃなくていい」
「あたしが作ったもの食べてくれるの?」
(……なんだその聞き方)
「オレはそのつもりだったんだけど」
如月さんの頬がまた赤くなる。
膝の上で指先がきゅっとそろってから、
「じゃ、ちょっと待ってて」
それだけ言い残して、ぱたぱたとキッチンへ消えていった。
その背中を見送っても、視線はずっとそっちへ向いていた。
キッチンで如月さんが、ヘアゴムを口へくわえて、慣れた手つきで髪をひとつにまとめている。
制服の上からエプロンをふわりと身につけ、腰の後ろへ腕を回し、紐を結ぶ仕草も自然だった。
(……いいな)
ただ料理前に髪をまとめて、エプロンを着けただけなのに、なんかよかった。
普通の動作だし、誰でもやる。
だけど、自分のために何か作ろうとしている。
それが良かった。
フライパンに火を入れる音。
油のはじける小さな音。
オレはソファへ座ったまま、その音をぼんやり聞いていた。
◇ ◇
(はぁ……緊張する)
キッチンに立って、あたしは卵を溶いていた。
さっきの、松前くんの一言。
『オレはそのつもりだったんだけど』
思い出してまた顔が熱くなった。
でも手は止めない。
卵をフライパンに流し込んで、焼き加減を見た。
(あたしの家で、あたしの作ったものを、あたしと食べるところを想像した……って聞こえた)
それって、もう付き合ってるみたいじゃん。
そう思ったら、急にキッチンが暑くなった。
違う、キッチンじゃない。
あたしの顔が熱い。
(いやいや、松前くんだもん。深い意味ないって)
でも、自分だけが一方的じゃなかった。
あたしがしたいことを、松前くんも嫌がってない。
(ちゃんと作ろ)
好きな人のために作っている。
(……美味しいって言ってほしいし)
下着、放置してるの見られて、だらしないって思われるかと思った。
飲み物も出さず、走って逃げたし、あれは最悪。
なのに松前くんは、なんでもないみたいな顔でいてくれた。
茶化さなかった。
変にニヤけたりも、イヤがりもしなかった。
「洗ってる」という意味不明な言い訳にも突っ込まず流してくれた。
(……やさし)
卵をそっと返して、バターライスに乗せて、お皿に盛り付ける。
ケチャップで、軽く線を引く。
ハート、一瞬だけ迷った。
(……やめとこ)
松前くんなら、笑ったりからかったりしないだろう。
でも、困った顔で「これなに?」とか言いそう。
余計なことはせず、そのままにした。
「……できた」
小さく呟いて、深呼吸してからリビングに戻った。
◇
「お待たせー」
如月さんがテーブルにオムライスを置いた。
ふわっとした卵に包まれた、見た目はシンプルなオムライスだ。
「ほんとに大したものじゃなくて申し訳ないんだけど。せっかく来てくれたのに、ごめんね」
「……いただきます」
小さく言って、スプーンを手に取り、卵を割った。
香ばしいバターライスに、半熟の黄色がとろりと流れ込む。
(……店で出てくるようなやつだ。これが大したことないなら、この子は普段なに食ってんだろう)
卵とライスを一緒に口に運ぶ。
(……うまっ)
如月さんがじっとこちらを見ているのが分かったけど、食べる手が止まらなかった。
もう一口。
もう一口。
卵がふわふわしていて、ライスの味付けもちょうどいい。
如月さんが手をぎゅっと握って、身を乗り出してきた。
「ど、どう?」
もう一口食べてから口をひらいた。
「わ、悪い。黙って食べて……うまいよ」
「えへへ、良かった」
如月さんの顔がゆるんだ。
オレは少し大きめにすくって、また口へ運んだ。
皿の中身が、少しずつ減っていく。
ふと、スプーンを動かす手を止める。
「如月さんって、なんで料理できるんだ?」
「食べるの好きって言ったじゃん、作るのも好きなんだよね」
「それだけ?」
「逆になにがあるの?」
本当に聞きたいことは別だった。
こういうの、オレにだけなのか。
如月さんの家で、如月さんの作ったものを食べるのは、他にもいるのか。
オレを気軽に呼ぶくらいなら、もっと自然にこの家へ来られる誰かがいても、全然不思議じゃない。
そんな言い方が、できるはずもなかった。
「誰かに作ってやるために覚えたのかと思った」
再び、オムライスを口に運びながら言った。
「ないない。そんな健気な理由じゃないよ」
「……そうか」
「でもそれもいいなって思っちゃった。松前くんめっちゃ食べてくれるんだもん、作り甲斐ありそう」
「悪い……せっかく作ってくれたのに、がっついて。もう少し、味わって食べるべきだよな」
また、やってしまった。
言わなくても、如月さんには伝わるし分かってくれる。
だけど、言葉にしたほうが、きっと相手は喜ぶ。
如月さんは、笑いながらやわらかく言う。
「松前くんって、変なとこ気にするんだね。冷める前に食べてほしいし、ほんとに嬉しいよ。がっついてくれるの」
「……そりゃあ、女に料理作ってもらったのは初めてだから」
つい、ぽつりと漏らす。
男なら、誰だってそうなるだろ。
可愛い女の子に、自分のために美味い飯作ってもらえたら。
如月さんの動きが止まった。




