10話 新学期、片耳だけ空けた距離⑤
松前くんの手を握ってしまった。
なんか硬かった気がする。
あと、大きかった。
(むりむりむり)
気にしてないって言ってくれた。
でも、つい言い訳を足す。
「今のは、わざとじゃなくて」
「わかってる」
即座に、短く返ってきた。
責められてはいない。
嫌がられてもいない。
でも、何かが残る。
自分がやらかして、謝って、松前くんに受け止めてもらった。
(……いや、いいのか)
そう思おうとした、そのとき。
松前くんがふと目を横に向けながら言った。
「オレの方こそ、ごめん……」
「松前くん、悪くないでしょ?」
「オレも、気づいてたのに黙ってたから」
(それ、言う必要ある?)
実は気づいてたなんて、自分まで気まずくなるだけのことを。
松前くんは口数が少ない。
意味のないことは言わないはず。
(あたしだけ気まずくならないようにした?)
そのことに気づいた瞬間、引っかかっていたものがほどけていく。
気づいてないふりもできたはずなのに、自分の側にも責任を置いてくれた。
(……そうやって、半分持ってくれるんだ)
お互い気まずくなってどうするの、と思う。
なのに、さっきまでの変な緊張はもう薄れていた。
どう思われたかなって不安が消えて、心臓が落ち着く。
(なんか、楽だな……)
松前くんの前だと、自分でいろいろ背負わなくていい。
さっき、一人暮らししてるって話をしたときもそうだった。
今までなら「大変そう」とか「可哀想」とか、そういう言葉をかけられていた。
笑っていても、楽しく過ごしていても、ちゃんと一人でやれていても。
親が近くにいないというだけで、勝手に自分の生活がかわいそうなものにされてきた。
松前くんは、寂しいかどうかは聞いた。
無理をしていることにも気づいた。
でも、それ以上は入ってこない。
わかった顔で近づいてこない。
かといって、放っておかれている感じもしなかった。
気にかけてないなら、きっと最初から何も聞かない。
松前くんの距離の取り方は、近いのか遠いのか独特すぎてよく分からない。
けれど。
いつもみたいに、踏み込まれすぎて苦しくなる感じがない。
だから、息がしやすかった。
「じゃあお互い様だね」
抑えたつもりなのに、思ったより声が明るく出た。
「あとで連絡するね」
「……ああ」
◇ ◇
教室の視線を背中で感じながら、自分の席に座った。
あちこちで小さなざわめきが生まれる。
「やっぱりなんかあるって」
「如月さんて誰に言われても連絡先とか交換しなかったよな」
「そうそう、絶対教えないので有名」
「松前には普通に渡してたじゃん」
微妙な空気が教室に広がるのを感じ、顔を上げて視線を流す。
松前くんは、静かに自分の席に座ったまま、すでにイヤホンをしていた。
気づいているのかいないのか、表情からはわからない。
あたしも、何もなかったように視線を戻す。
スマホを開く。
連絡先の一番上に新しい名前。
『MASAKI』
去年の夏から、ずっと見ていた人。
声をかけても、届かなかった人。
それがやっと、名前が入った。
たったそれだけのことなのに、
(……嬉しいな)
思わずニヤけてしまい、慌てて指で押さえる。
スマホを操作して、幼なじみのミオへ報告する。
『ねえミオちゃん聞いて』
『今日さ、松前くんとお昼一緒だったんだけど』
『連絡先交換した』
スマホが震える。
早い。
『それ教室?』
『人に見られてない?』
(なんで?)
『うん、教室』
『今しかないと思ってさ』
『我ながらちょっと頑張った』
『じゃあ気をつけてね』
『自分もいけるかもって思う人』
『確実に増えるよ』
その一文で、指が止まる。
視線だけあげると、ちらっとこっちを見ている男子が何人かいた。
(……あ)
分かっていなかったわけではない。
ただ、聞くなら今しかないと思って、そこまで考えていなかった。
『そこまで頭回ってなかった』
『リサちゃんなら上手く断れると思うけど』
『つらかったら言って』
『ありがと』
『頼りにしてる』
スマホの画面を閉じて、机の上に伏せた。
(最初のひとこと、なんにしよっかな)
そのとき、
「なあ、如月さん」
声をかけられる。
顔を上げると、クラスの男子が一人、机の横に立っていた。
ミオの言葉が頭をよぎりながら、にこっと笑った。
「なぁに?」
「さっきさ、松前と連絡先交換してたじゃん。オレとも交換しない?」
(来た…)
断られるとは思っていない顔をしている。
でも、ここはしっかり線を引かないとダメだ。
「ごめんね。それは無理かな。全員に教えるわけにもいかないからさ」
「え、なんで? 松前とはしてたじゃん」
食い下がってくる男子生徒に対し、あたしは笑顔をたもったまま崩さない。
「相手はちゃんと選んでるから」
「……は? いや、選ぶって何。基準あんの? 松前はよくてオレはダメって、正直意味わかんねーんだけど」
語気が強くなる。
教室にいる人の視線が、じわじわ集まってきているのを感じた。
「それはごめん、言い方悪かったよね」
やんわり言うと、男子の顔がわずかにゆがんだ。
「……感じ悪くね?」
いら立たれた。
あたしは笑顔のまま、言葉を飲み込む。
これ以上、どうやわらかく断ればいいのか。
次の言葉を選ぼうとした。
そのとき。
「……それもう答え出てるだろ」
低い声。
男子のすぐ後ろに、いつの間にか松前くんが立っていた。
男子が振り返る。
「は?」
松前くんはポケットに手を入れたまま、
「断られてんじゃん」
とだけ言って、何事もなかったみたいに通り過ぎた。
誰とも目を合わせないまま、廊下へ出ていった。
男子生徒が口を開きかけて、止まる。
教室のあちこちから、ひそめた声が広がった。
「さすがにあれはしつこくなかった?」
「ちょっとな、断ってんのに食い下がるのはキツわ」
耐えきれなくなったのか、男子生徒は黙って自分の席に戻った。
その中で、別のひそひそ声。
「てか今さ、松前なんか言ってなかった?」
「え? いや、通り過ぎただけだろ?」
認識は曖昧なまま、結論はなく流れた。
さっきの一言。
空気の切り方。
あの時みたいだった。
(……いや、カッコ良すぎでしょ)
思わず、口元が緩む。
今度は隠さなかった。
(最初のひとこと、ありがとうにしよ)
◇ ◇ ◇
午後の授業が始まる数分前。
準備をする動きがわずかにかたい。
オレは、如月さんの言っていた『相手はちゃんと選んでる』が気になっていた。
他のクラスメイトたちは、あの子の連絡先なんてもう当たり前に知っているのだと思っていた。
でも、違った。
そのせいで、如月さんが詰められていた。
放っておくと自分に飛び火しそうな内容だった。
別に助けたとかじゃない。
優しさでもない。
面倒なことを避けただけだ。
如月さんは、助けを求める顔はしていなかった。
(かえって、余計なことをした……)
そのとき。
スマホが小さく震える。
(……来た)
『さっきはありがとね』
思ったより、短い文だった。
正直、長かったらどうしようと思っていた。
『別に』
送ると、すぐ既読がつく。
『本当に助かった。あとカッコ良かった』
(カッコ良かった、って何だ)
『そうか』
と返す。
(深くしない方がいい)
『今度お礼させて』
すぐに返ってくる。
指が止まった。
(……お礼? 別にそんな大したことしてない)
送るべき答えは決まっている。
『気にしなくていい』
(これで終わる)
はずだった。
『じゃあ勝手にする』
(……勝手に。どういう意味だ)
結局、短く返す。
『好きにしろ』
送信した瞬間、違うと思った。
(……今の、言い方きつくないか)
突き放したつもりはなかった。
でも、文字だけ見るとかなり冷たい。
女の子に向ける言い方じゃない。
既読はつく。
返事は来ない。
画面に残った自分の言葉が、さっきよりずっと冷たく見えた。
(やらかした……)
せっかく連絡先を交換した。
向こうから話しかけてくれて、お礼まで言ってくれて、それなのに、最初のやり取りでこれだ。
傷つけたかもしれない。
気を悪くさせたかもしれない。
もう返ってこないかもしれない。
『悪い』と打ちかけて、消す。
謝ったところで遅い。
(……やり直したい)
スマホを伏せた。
もう戻せない。
スマホは震えない。
◇ ◇ ◇
「ねえ」
授業が終わると、横から軽い声がした。
如月さんがいつもの笑顔で、ひょこっと顔を出し、少し下からのぞき込むようにして視線を合わせてくる。
「松前くんのLINE、なんか楽だねー」
さっきの空気を引きずっている様子はない。
しかしこの子は、気まずくなりそうな流れを先に笑って崩すくらい、たぶん簡単にできる。
オレは顔を上げて、如月さんを見た。
声の軽さだけじゃない。
口元も、目の動きも、変にとりつくろっている感じがない。
無理に明るくしている時のような硬さは見当たらなかった。
それが分かった瞬間、さっきまで勝手に膨らんでいた後悔が行き場をなくした。
しかも如月さんの口から出てきた言葉が『LINEが楽』だった。
(いや、なんだ? LINEが楽って)
「どういう意味だ」
「一言で返ってくるじゃん。超わかりやすい。簡単」
わかりやすい。
簡単。
悪い意味ではない気がする。
「……褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
にこっと笑う。
「だってさ、長くされたらこっちも長く返さなきゃってなるじゃん。あたし文字打つの遅いから、楽だなって」
自分の返事は、短くて雑なだけだと思っていた。
でも如月さんは、それを冷たいものとして受け取っていない。
「というか、先に一言だけ送ってきたの如月さんじゃ……」
言ってから、如月さんがかたまって、言葉が止まる。
(しまった)
言いたかったのは、そうじゃない。
如月さんが先に短く送ってきたから、こっちも一言で返せた。
長く返さなきゃいけないとか、そういうところで止まらずに済んだのは自分も同じだ。
そう言いたかった。
なのに、口から出たのは、先に短く送ってきたのはそっちだろ、みたいな言い方だ。
オレが内心で詰まっていると、如月さんは首を傾けたあと、ふっと笑った。
「じゃあお互い様だね」
オレが言い損ねた方の意味を拾ったみたいだった。
嬉しそうに目を細めている。
「お互い様か」
「うん、お互い様」
どちらかだけが合わせたわけじゃない。
たぶん、お互い似たようなことをしていた。
「さっきの、ほんと助かったよ」
「……別に」
「やっぱ松前くんかっこいいよね」
脳が空白になる。
意味は分かる。
褒め言葉だというのも、わかっていた。
なのに、
「……そういうの、いいから」
ぼそっと返してしまう。
(最悪だな今の)
どう返せばいいのか分からなかった。
こういう言葉を向けられ慣れていないのに、さらっと受け取れるわけがない。
如月さんは笑っている。
「やだな、お世辞とかじゃないよ」
「悪い」
「え、なにが?」
「さっきの……言い方が悪くて」
如月さんはきょとんとして、それからすぐに笑う。
「気にしすぎじゃない?」
その軽さに、オレの肩の力が抜けた。
「松前くんて、ほんとに喋るの苦手なんだね」
(……今さらそれ言う?)
事実ではある。
「苦手なのにちゃんと返してくれるのえらいよね。頑張ってるね」
(なんだそれ)
えらいって。
頑張ってるって。
喋らないのは悪いこと、短い返事は雑で冷たい。
普通はみんなそう思う。
如月さんはそれを「でも返そうとしてくれてる」「だから楽でわかりやすい」と置き換えてくる。
(ほんと、なんなんだこの子……)
オレは口の端がゆるみそうになるのを、必死に耐えていた。
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