弟の一日
翌朝、湊の記録の全文を引いた。
執行は、エマが死んだ日の深夜。救い戻し目的で執行されている。
つまり台帳の上では、こうなる。姉が死んだその晩、弟は自分の権利で救い戻しを申請。救済の席を勝ち取り、昨日へ戻った。──姉の死をなかったことにするために。
それなのに、エマは死んでいる。
「……救い戻しが通って、それでも死ぬなんてこと、あるんですか」
画面を覗き込んだ同僚が、声を落とした。質問への回答としては滅多にない、が答えだ。救い戻しは、死をなかったことにするための席だ。戻った朝から気をつけていれば、事故ならまず防げる。防げないのは、死の原因が、やり直した日においてもそのまま残っている場合——たとえば誰かのはっきりした殺意のように、時間を戻しただけでは消えてくれない原因が残り続けている場合だけだ。
そして端末の画面の隅には、もう一つの表示が出ていた。
【当該日区間:復元二回/二回。以後、封印】
あの日にはもう戻れない。誰の権利でも、どの席でも。久遠寺エマを救う道は、規則の上でも物理の上でも、完全に閉ざされた。
昼前には、どこかから話が漏れたようでエマの死について報道されていた。
報道の見出しは、こうだ。
『令嬢の死んだ日、弟も「昨日」へ戻っていた——消された一日に、何が?』
世間の解釈は単純だった。あの朝、弟はまるで姉の死を知っているかのように、出かけるなと玄関で騒いだ。エマの死をあらかじめ知っている人間は、この世界に一人しかいない——昨日から、戻ってきた人間だ。そして台帳には、確かに弟の執行記録がある。絵としては、綺麗すぎるほど筋が通っている。戻った理由が「救うため」だったか「殺すため」だったかという、いちばん大事な一点を除けば。
マスコミは台帳が語ること以上のことは報道できない。台帳の上で、あの日へ戻ったのはエマ本人と、その弟。だから世間的に、この事件は「自分で戻ったのに死んだ令嬢」と「死を知っていたが救えなかった弟」──だけであれば良いのだが、やはりというか、中には「姉を殺すために戻った弟」と捉えている者もいる。
※
午後、湊を聴取室に呼んだ。
三日前に屋敷で会ったときより、頬がそげて見えた。十九歳。世界で唯一昨日を知る者。
「台帳を確認しました。あなたはあの日の深夜、救い戻しを申請して、認められています」
「……」
「戻った一日に、何があったのか。話していただけますか」
湊は長いこと黙っていた。それから、途方もないことを訊かれたとでも言うように、乾いた声で笑った。
「話して、誰が信じるんですか」
「わたしは、聞くために来ています」
「聞くのと信じるのは違う」湊はテーブルの一点を見つめたまま言った。「あの晩、姉さんが死んだって報せが来て、頭が真っ白になって——気づいたら、手の中の端末で、申請を終えてたんです。申請なんて、指先ひとつですぐにできますから。……でも、そこから先は、僕の頭の中にしかない。僕が何を話したって、確かめようがないでしょう。戻ったこと自体が、姉さんを殺した証拠みたいに言われてる。だったら、黙っていたほうがましだ」
「黙っていても構いませんが、絵は勝手に描かれますよ。あなた抜きで」
「もう描かれてます」
それきり、彼は口を閉ざした。促しても、脅しに聞こえない程度に規則を並べても、駄目だった。ただ、退室の間際、彼は一度だけ振り向いた。
「……監査官さん。救い戻しって、いちばん尊い席なんですよね。研修でそう習うんでしょう」
「習います」
「あれ、嘘ですよ」
静かな声だった。怒りよりも、ずっと冷えた何かの声。
「──間に合わなかった席のことは、誰も教えてくれない」
パタンとどこか悲壮な音をたてつつ扉が閉まった。わたしはしばらく、椅子から立てなかった。
※
夜、誰もいなくなったフロアで、手帳を開いた。
聞き集めた言葉を、一枚のページに並べていく。
台帳は言う。エマの権利が、商いの席で動いた。湊の権利が、救済の席で動いた。その日は、既に二回繰り返されており、封印された。
弟は言う。──姉さんは巻き戻してなんかいない。
栞は言う。──俺は、死んだはずの時刻より後の彼女と、立ち話をした。
そして湊は、戻った一日を語らない。話しても誰も信じない、と言って。——その言い回しを、わたしは数日前にも聞いている。市場通りの、鉋を握った男から。信じてもらえないことに慣れた人間は──他人を信じることを諦めた人間は、同じ考えに行きつくのだろうか。
ページの上で、証言たちは互いに矛盾したまま並んでいる。誰かが嘘をついている、と考えるのが監査の定石だ。嘘がひとつ。あるいは、ふたつ。
ペンを置いて、天井を仰ぐ。
「ただ......」
もし——嘘がひとつもなかったら?
台帳も、弟も、栞も、全員が本当のことを言っているのだとしたら。それが全部同時に成り立つ世界は、いったいどんな昨日を経て今日に至ったのだろうか。
窓の外にはいつも通りの夜景。今もどこかで誰かが、二つきりの席に手を伸ばしている──。
わたしは手帳を閉じて、明かりを消した。
──形の見えない何かの輪郭に、指先が触れかけていた。




