三分前
その週末は、姉の命日だった。
見慣れた坂を上って、実家の玄関の前に立つ。扉の脇には生前に姉が使用していた懐中時計が掛かっている。時計の針は四時二十二分を指したまま止まっている。姉が死んでからの五年間、一秒たりとも動いていない。
救い戻しの席は、姉には巡ってこなかった。詳しいことは今もわかっていない。保針局技官、時任トワ。公務中の事故により殉職。遺族に返されたのは、勲章がひとつとこの時計だけだった。
実家に上がると、母が茶を淹れてくれた。湯呑みをふたつ、それから三つ目を仏壇の前に置く。月日は心の傷を洗い流すと言うが、母の心はまだ癒えきってはいないようだ。──かくいう私も癒えきってはいないが。
「仕事は、どう」
「……ちょっと大きい案件を持ってて。」
「そう。あんまり根を詰めないでね」
母は姉の話をしない。私もしない。この家では、四時二十二分という時刻だけが、姉の話をする。
帰り際、玄関先で靴を履きながら掛かった時計をもう一度見上げた。殉職。事故。詳細は非公開。——五年前の私は、その言葉の並びを、悲しみながらも飲み込んだ。十七歳だったし、国が言うのだから、そういうものだと思った。
いまの私は、監査官だ。記録を読む側の人間になった。
※
週明け、私は庁舎の地下二階へ下りた。
台帳局が管理する中央記録庫。基針の台帳とはまるで別物の場所だ。台帳が抱えているのは、遡行そのものの記録だけ。申請、裁定、執行はどれも数秒で片がつくため人が紙に書き取る猶予などない。その代わり、遡行の外側には今でも人が紙に書き続けている記録が山ほどある。公証の綴り。歴代の職員名簿。殉職者の公簿。九百年ぶんの図面。時間をかけて作成し、綴じてきた紙だ。それを収めているのが、この書庫だった。
とはいえ記録庫にある紙の記録は、ほぼすべてが電子化されており端末での索引が可能だ。実際に紙の記録を漁ることはほとんどない。しかし、情報漏洩の観点から過去の記録に関する事項に関しては閲覧可能な端末が限られている。
記録庫の入口にある受付で、庫番の老職員に照会札を渡す。老職員は札と私の顔を見比べて、「殉職公簿は奥の閲覧席」とだけ言った。無駄のない人らしい。
通常、殉職者の公簿は遺族であっても全文は見られない。けれど監査官であれば、台帳に接する部分だけは閲覧席の端末から照会できる。姉が死んでから五年間、一度もやらなかったことだ。怖かったのだと思う。読んでしまえば、姉の死が「案件」になるから。
画面に、短い記録が並んだ。
【時任トワ名義、遡行権執行——死亡推定時刻の、三分前。】
──手が、止まった。
三分。
確かに、申請そのものは携帯端末から指先ひとつで可能だ。申請には数十秒あればこと足りるから、死の間際の申請が不可能だとは言わない。けれど——死ぬ三分前の人間が、いったい何を戻そうとするのだろうか。事故ではなく明確な殺意などが原因の場合、昨日に戻ったところで同じ結末になることは庁員である姉のことなら重々理解していただろう。それでも遡行したということはやり直せる何かであったはずだ。
ではなぜ実際に遡行したはずの姉が死んでいるのか。戻って何をやり直そうとしたのだろうか。
久遠寺エマの通知を初めて見た日と、同じ形の疑問だった。死ぬ日に、自分で昨日へ戻った令嬢。死ぬ三分前に、遡行した姉。五年前には言葉にできなかった違和感が、監査官の視点ではっきりと輪郭を持った。いや、持ってしまった。
「台帳が記すのは、権利だ。人じゃない」
班長の言葉がフラッシュバックする。
そうだ。名義が動いたことは本人が席に着いたという意味ではない。
詳細を知ろうと、震える指で端末の操作を行った。執行の席、事由、裁定の経緯——色々な感情や考えが脳裏を巡る。その瞬間、画面が切り替わった。
【当該記録:保針局管轄。閲覧権限がありません】
何度やり直しても、同じ表示だった。画面の下に制限をかけた手続きの控えだけが申し訳程度に付いている。誰かがこの記録に鍵をかけ、その手続きを誰かが承認した。ところが、承認者の欄だけが黒く伏せられていた。文字が消えているのではない。表示させない、という意思を上から被せてある。
核心への扉は保針局によって閉ざされた。けれど、この書庫が抱えているのは台帳の記録だけではない。役所が紙に書き、後から電子に移した記録も存在している。保針局は基針への扉は閉じたけれど、台帳局が綴って来た公簿にまでは手が出せなかったようだ。
公簿の末尾に、遺品と備品の返納目録があった。制服一式、庁支給の端末、工具、それから見慣れない一行——原本一式・零番庫へ。倉庫番号か何かだろう。目録というのは、部外者には暗号のようなものだ。
庫番に札を返して、地上への階段を上る。踊り場の窓から、夕暮れの庁舎の中庭が見えた。
五年前の姉の三分間は、保針局の扉の向こうにある。監査の立ち入れない領域に。
※
その晩、真っ直ぐ帰る気になれず、遠回りをした。気づけば、斜塔の下の広場に出ていた。
夜の塔は、昼よりも傾いで見える。灯りに縁取られた輪郭が、暗い空へ斜めに刺さっている。
「——監査官さん」
声のした方を向くと、街灯の下に日下栞が立っていた。偶然、という顔ではなかった。
「調べさせてもらいましたよ。あんたのことも。──時任ソラ。」栞は塔を見上げたまま言った。「あなたの姉さんも、"数えられていない日"の絡みで死んだ口ですか」
「……どうして、そう思うんです」
「あんたの目が、俺を妄想だと思ってない目だからです。そういう目をした役人には、初めて会った」
しばらく、二人とも黙って塔を見ていた。先に口を開いたのは、栞のほうだった。
「久遠寺の件。話す気になりました」
「聞きます」
栞は、少し間をおいて、塔を見ながら話し始めた。
「まず、あの日は三回あった」
風が、広場を横切っていった。
「一回目の夕方、お嬢さんは死んだ。うちの店の裏手の、石段の坂です。言い争う声がして、外に出たら、お嬢さんが突き飛ばされて、段の下に倒れてた。頭を打ったようで、動かなかった。……突き飛ばした男の顔は、はっきり見ています」
栞はそこで初めて、塔から私へ視線を移した。
「あの婚約者ですよ。氷室とかいう」
「——」
言葉が出ない。動揺する。
栞から言われたことを整理する間もなく彼は言葉を続ける。
「二回目は、店の前にお嬢さんは来なかった。三回目も。そして三回目の朝が明けたら、世間は『お嬢さんが屋敷で死んだ』と騒いでいて、石段の坂のことは誰ひとり覚えていない。……ご存じの通り証拠はありません。全て俺の頭の中にしかない。それでも聞きますか?」
私は考えるより先に手帳を取り出しペンの頭を叩いた。ためらう余地などない。
「聞きます。三日分全て。あなたの覚えている三日間について全て教えてください」
栞は、ほんの少しだけ笑ったように見えた。たぶん、十年分の何かがこもった笑い方だったと思う。




