又貸し
久遠寺の件だけを睨んでいたいのに、監査局の机には、ほかの仕事も等しく降ってくる。
その朝振られた仕事は、権利の又貸し案件だった。
被疑者は七十二歳の御婦人。孫を自分の代理人に登録し、その孫が祖母の遡行権を使って、自分の商売の失敗をなかったことにした——という内容だ。個人の遡行権は譲れないしもちろん売ることもできない。ただ、寝たきりの親のために子が申請を代行できるように、代理人を立てることだけは認められている。人助けのための決まりごとには、人の情の数だけ抜け道ができる。
聴取室の御婦人は、悪びれもせずに胸を張った。
「あの子が店を潰したら、わたしの老後は誰が看てくれるんです。立派に身内の一大事、悲劇ですよ」
「お気持ちは分かります。ですが、代理の方が権利を使えるのは、あくまで権利者ご本人のためだけなんです」
「あら。孫の幸せは、わたしの幸せですけどねえ」
理屈としてはこの上ない。結局その日は、調書を整えるだけで午前が潰れた。御婦人を見送りながら、眞鍋がぼやく。
「またこのパターンか。婆さんと孫のやつは、年に何件も来るぞ」
「制度の穴、ということですか」
「穴というより、影だな。仕組みを作れば、必ずどこかに影ができる。台帳は嘘をつかないが、全てを白日の下にさらしてくれるわけでもない」
含みのある言い方だったけれど、班長の小言はいつも含みだらけなので、わたしは「肝に銘じます」とだけ返した。
※
午後、書類の束を抱えて台帳局へ向かった。
窓口前の待合には、順番待ちの人が並んでいる。誕生日の更新確認、代理人の登録、相続がらみの照会。時間を扱う役所の待合は、どこか病院のそれに似ていて、みんな、呼ばれるまでの間だけ妙に行儀がいい。
隣の窓口では、老人がひとり、目を閉じて何かをつぶやいていた。担当者が少し席を外しているようだ。老人の独り言かと思えば、そうではない。条文だった。学校で覚えた詩を辿るときのような、ゆっくりした抑揚で、条文を諳んじている。
「——遡行権は、繰り返される悲劇を断つためにのみ、執行される——」
「お詳しいですねえ」窓口に戻って来た若い職員が、書類を捌きながら愛想よく言った。
「昔はな、皆で暗唱させられたもんだ。学校でも、成人の式でもな」老人は目を開けて、少し得意げだった。「近ごろの若い人は、条文なんぞ覚えとらんだろう」
「覚えてますよう。それはもう研修で叩き込まれますから」
ほほ、と老人が笑い、職員も笑い、用が済んだのか老人は席を立ってそれきりだった。
わたしは書類を窓口に預けながら、聞くともなしに聞いていた。年寄りの暗唱というのは、どうしてああも呑気で、いいものなのだろう。祖父が生きていた頃を少しだけ思い出して、それで終わった。
※
夕方、久遠寺家の周辺を洗っていた同僚から、報せが入った。
「時任さん、出ましたよ。使用人の証言です」
差し出された聴取記録に、目を走らせる。
——事件の一週間前、久遠寺邸で言い争いがあった。声の主は、エマと弟の湊。使用人が廊下で聞き取れたのは切れ切れだが、金の話だった。湊の進学の費用と、エマが預かる亡き両親の遺産。「姉さんには分からない」という湊の声。何かの倒れる音。その晩、湊は屋敷を出て、事件の日の朝まで戻らなかった——。
「動機、ですかね」と同僚が言う。
「……口論と動機のあいだには、川が一本あるけどね」
そう答えながらも、わたしの目は記録の日付に留まっていた。事件の一週間前。エマの自室の端末に表示されていた仲睦まじいやりとりの、すぐ裏側だ。
一週間前に金で揉めて家を飛び出した弟が、事件の朝に突然戻り、玄関で姉を引き留めて騒ぎを起こし、その日のうちに姉は死んだ。並べただけで、黒い絵が見えてくる並びだった。
姉さんは巻き戻してなんかいない、と叫んだ弟の顔を思い出す。あの声を疑いたくはない。けれど監査官の仕事は、声ではなく記録を読むことだ。
報告すると、眞鍋は今度は書類から顔を上げた。
「台帳で弟の記録を引け。権利に関すること全てだ」
「はい」
「言っておくがな、時任。気の毒がるのは、白黒ついてからにしろ。順番を間違えると、目が曇る」
分かっています、と答えて、端末に向かった。
久遠寺湊、十九歳。名前を打ち込む指の横で、なぜだか、昼間の老人の呑気な声がまだ頭の隅に残っていた。意味のない記憶ほど、耳に長く居座るものらしい。
弟の遡行権に関する照会結果が、端末の画面に浮かんだ。
【久遠寺湊——本年分遡行権:執行済。執行日:時計暦三五四一年十月二十六日】
弟の遡行権は執行されていた──十月二十六日。久遠寺エマの死んだ日だ。




