知らない日を語る男
翌朝から、台帳と証言の突き合わせに掛かった。
台帳、というのは、基針が抱えている記録のことだ。紙の帳面ではない。基針そのものの中に刻まれていて、わたしたちは端末から、それを覗かせてもらうだけだ。世界を昨日へ戻せば、その日の出来事はまるごと消える。人の記憶も、街の映像も、役所の書類さえも、みんな昨日へ戻されてしまう。ただ一つ、この台帳だけは、巻き戻しをまたいで残るように作られている。いつ、どの遡行権が動き、どの席が使われ、裁定が下りたか。世界がやり直されても、その核心だけは、基針が握って離さない。
だから監査局の仕事は、いつだって、端末で台帳を引くところから始まる。消えた昨日の手掛かりは、まず、ここにしか残らないからだ。
骨だけ渡されて、肉は自分で探せ、ということだ。だから残りは、人の口から拾うしかない。手始めに、婚約者をもう一度呼んだ。
もっとも、台帳が語るのは、そっけない三行だけだった。久遠寺エマ名義の遡行権が、死亡した日の深夜に動いたこと。席は国のほう、つまり商いの席だったこと。裁定は正規に下りていること。それ以上のことは、何も書かれていない。
手始めに、婚約者をもう一度呼んだ。
聴取室の氷室律は、屋敷で会ったときと寸分違わなかった。背筋、声の調子、悲しみの畳み方まで。彼自身の当日の足取りを別の角度から突いてみても、時刻も場所も、まるで揺れない。立ち寄り先の名を訊けば即座に答え、その裏を取れば、きちんと合う。
「ご協力感謝します。今日のところは以上です」
「いえ。エマのためですから、何度でも構いませんよ」
立ち上がった彼の手元に、細く畳んだ傘があった。窓の外は、雲ひとつない快晴だ。
「……今日は、降らないと思いますよ」
「用心ですよ。濡れてからでは遅いので」氷室は薄く笑った。
婚約者を亡くしてなお、傘を忘れない程度には几帳面な人だ、と思った。
その日の午後、予報になかった夕立が街を洗った。窓際で書類を綴じながら、わたしは彼の傘を少しだけ思い出し、報われる人もいるものだと思って、それきり忘れた。
※
午後は、事件当日のエマの足取りを洗い直した。
といっても、洗うほどの足取りはなかった。使用人たちの証言は揃っている。あの朝、エマは屋敷から一歩も出ていない。出ようとするたびに、玄関で弟の湊に引き留められていたからだ。早朝に突然帰ってきた弟が、朝から「今日は出かけるな」の一点張りで、玄関先はちょっとした騒ぎだったという。そして午前十時八分、彼女は階段の下で発見された。
外出なし。彼女を見た者は、屋敷の中にしかいない。事件当日のエマの行動は、屋敷で完結している——はずだった。
ひとりを除いて。
市場通りの外れで小さな修理屋を営む男が、聞き込みにこう答えたという。「久遠寺のお嬢さんなら、あの日の昼過ぎ、店の前で立ち話をしましたよ」と。
昼過ぎ?
彼女が死んで、数時間も後だ。
死人が出歩くはずがない。放っておけない性分なので、発言者に会いに行った。
日下栞、二十四歳。店番をしながら古い椅子の足を削り修理を行っている男は、わたしの名乗りを聞いても、手を止めなかった。
「時計庁の方が、何のご用です」
「久遠寺エマさんと、事件の日の昼過ぎに話したと伺いました。ですが彼女は、その日の午前十時八分に亡くなっています。屋敷から出てもいません」
「でしょうね」
驚くほどあっさりした返事だった。
「でしょうね、とは?」
「毎度のことなので」栞は鉋の刃を確かめながら言った。「監査官さん。あなた方の言う"あの日"と、俺の覚えている"あの日"は、たぶん違う日なんですよ」
「……同じ日付の話をしているはずですが」
「日付は同じです。日付は、ね」
禅問答のようだが、ふざけている顔ではなかった。栞は削り屑を払うと、棚から一冊の帳面を抜き出した。紙の日記だ。この時代に紙。しかも一般的な書籍十冊ほどの厚みがある。
「十年、つけてます。その日のことも書いてある。読みますか」
「……いえ。今日のところは、結構です」
日記は本人が書くものだ。証拠にはならない。ならないと分かっていて、それでも彼が差し出したのは、おそらく信じてもらえないことに慣れているからだろう。
「お嬢さんは」帰り際、栞は初めて手を止めて言った。「店の前で、笑ってましたよ。来週の約束があるんだ、って。……死んだはずの時刻より後に、そういう人と立ち話をした日を、俺だけが覚えてる。気味が悪いでしょう」
気味が悪い、とは思わなかった。ただ、彼の話しぶりは、嘘をつく人間のそれとは違う気がした。嘘つきはもっと、聞き手の顔色を見ながら話すし、なによりこんな荒唐無稽すぎて信じる可能性の低い話などしない。
※
局に戻って報告すると、眞鍋は書類から目も上げなかった。
「日下栞。ああ、その男の話は、以前にも回ってきたことがある」
「過去にも同じようなことを?」
「証言がどうというよりは、症例としてだ。日を数え違える——実際にはない一日を、あったと思い込む。古くから報告のある妄想の型だよ。医学の領分だ。いずれにせよ証言としては使えん」
「妄想、ですか」
「妄想だ。でなけりゃ、世界のほうが間違っとることになる」
眞鍋は笑いもせずに言って、それで話は終わりだった。
自席に戻って、手帳を開く。昼間の走り書きが目に入った。券、二枚。約束、三日前。——来週の約束。
栞の言葉と、集めた情報が同じ単語を示している。妄想にしてはできすぎた一致だ。もっとも、聞き込みの過程でどこかから漏れ聞いた話を、記憶と取り違えているだけかもしれない。人の記憶は、それくらいのことは平気でする。
わたしはページの端に、三つ並べて書いた。
嘘つき。病人。それとも——。
三つ目の言葉が、見つからないまま、その日は終わった。




