止まった時計
久遠寺の屋敷は、坂を上りきった先にあった。
車を降りて、最初に目に入ったのは玄関の扉だった。銀の懐中時計が、蓋を開いた形で掛けられている。文字盤はこちらを向き、針は十時八分を指したまま動かない。
針止めだ。人が死ぬと、遺された家族が止まった時計を玄関に掲げる。昨日を巻き戻せるこの時代に、あえて止まった時計を掲げるのは、それだけでひとつの告白になる。——この家の死は、戻せなかった。
通知の文面を思い出す。久遠寺エマ。死亡は時計暦三五四一年、十月二十六日、午前十時八分。玄関の時計は、その時刻で止められていた。
わたしは文字盤に向かって、一度だけ頭を下げた。これから会う遺族にというより、十月二十六日の、十時八分という時刻そのものに。
門扉の脇では、年季の入った作業着を着た男がしゃがみ込んで蝶番に油を差していた。傍らの工具箱に〈補修〉の焼き印。目が合うと、男のほうから会釈をよこした。
「役所の者か。お勤めご苦労さま。」
「恐れ入ります。……門の修理か何かですか」
「建付け直しよ。近ごろ、ここらの家は建付けが狂うのが早くてたまらんわ」男は蝶番を指先で二度弾いた。「不思議なもんでな、立派な屋敷ほどよく狂う。おかげでうちの得意先は名家ばかりよ。安普請の長屋のほうがよほど長持ちするってんだから、世の中わからんな」
「立派な分、狂いが目立つだけでは?」
「この仕事を初めて最初の方はそう思ってたがね。三十年この仕事をやってきて、どうもそれだけじゃない。」男は肩をすくめた。「ま、理屈はどうあれ、直せば飯が食える。それでええ」
金持ちの屋敷ほど傷みが早いなら、たしかに商売としては上等だろう。わたしは「ご繁盛で何よりです」と返して、門をくぐった。職人の世間話は、どこの街でも似た音がする。
※
使用人に案内されて、まず故人の私室を検めさせてもらう。監査というのは、死んだ人の暮らしを覗き込む仕事でもある。慣れることはないし、慣れたくもない。
日当たりのいい部屋だった。
机の上には、来週のコンサートの券が二枚。一枚は本人、もう一枚は、誰か連れの分だろう。壁の端末には友人とのやりとりが表示されており、いちばん新しい日付は三日前。《それじゃあまた。来週が楽しみだね。》。どこにでもあるやり取りだ。
書きかけの手紙もあった。宛名の途中でインクが途切れて、最後の一画だけがわずかに跳ねている。書きながらふと顔を上げて、笑ったときのような跳ね方だった。
幸せそうな部屋だ、と思う。思って、そこで止めておく。こういう部屋の主が二十一で死ぬのは順番が違う、ということだけを胸に留めた。順番の狂った死には、たいてい誰かの手が入っている。
手帳を開いて、見たものをそのまま書き取っていく。券、二枚。約束、三日前。手紙、書きかけ。意味は結ばない。結ばないまま、ぜんぶ拾う。拾い終える前に結んだ意味は、たいてい歪むからだ。
※
応接間には、ふたりが待っていた。
ひとりは婚約者の氷室律、二十七歳。立ち上がって名乗る所作に無駄がない。悲しみをきちんと畳んで、内ポケットにしまってあるような人だった。取り乱しはしない。かといって、冷たくもない。
「エマの件で、お訊きになりたいことがおありでしょう」
わたしが口を開くより先に、彼は言った。
「あの日の彼女の行動なら、朝から順にお話しできます。そのほうがお手間を取らせない」
実際、彼の説明は見事だった。時刻、場所、同席者。問いを挟む前に答えが差し出されていくので、わたしはペンを走らせるだけでよかった。綻びらしい綻びは、どこにもない。
もうひとりは弟の久遠寺湊、十九歳。ソファの端に浅く座り、さっきから膝のあたりを睨んでいる。
「湊さんは、当日はどちらに?」
視線を向けたとたん、彼は弾かれたように顔を上げた。
「——姉さんは、巻き戻してなんかいない」
「湊」氷室が静かに窘める。
「だって、そうだろう!台帳に何が残っていようと、姉さんが自分から席を取るはずがない!──あの人は、そういう人じゃない!」
言い捨てて、湊は部屋を出ていった。扉が音を立てて閉まる。氷室が、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「すみません。姉を亡くしたばかりで、気が立っているんです」
「いえ。ご心痛はお察しします」
答えながら、手帳の隅に短く書き足す。弟、動揺。婚約者、冷静。いまはそれだけでいい。
それだけでいいはずなのに、視線は勝手に、湊の出ていった扉を追っていた。台帳に何が残っていようと——彼はいま、確かにそう言った。記録より姉を信じる、と言った。
美しい台詞だ。そして監査官にとっては、聞き捨てならない台詞でもある。記録が間違っているか、彼が間違っているか。世界はたいてい、どちらかなのだから。
※
屋敷を出ると、日はもう傾きはじめていた。
玄関の針止めが、西日を受けて鈍く光っている。十時八分。久遠寺エマの、最後の時刻。
——本当に、最後の時刻?
ふと浮かんだ疑問を、わたしは手帳の白いページに書きつける。台帳は、彼女の権利が執行されたと言っている。一方で弟は、彼女は自ら遡行の席を取るような人ではないと言っている。両方が正しいことは、あり得るだろうか。
ペン先が、そこで止まる。
あり得るとしたら、それは、どんな形だろう。
坂の下から夕方の風が上ってきて、ページの端をめくろうとする。わたしは手帳を閉じ、襟を直して歩きだす。背中で、門の蝶番がかすかに軋んだ。直したそばから、もう鳴いている。あの職人がまた呼ばれるのも、そう遠くないのかもしれない。
考えることは山ほどある。まずは台帳だ。明日の朝いちばんに、久遠寺エマの申請記録を、頭から洗い直す。
読んでいただきありがとうございます。
書き溜めとは言いつつ投稿する前に見直すのですが、やはり何度読み返しても修正してしまいますね。
書き溜め(ストック)とは一体なんぞや.....
ストック(未修正)がまだ十数話分くらいはあるのでサクサク進めたいものです。
応援していただけると励みになります。今後ともよろしくお願いいします。




