十三の鐘
鐘の音を数えている。
——十一。十二。
時報なら、ここで終わる。昼の一時を十三と数える場合もあるけれど、この鐘は違う。時刻を告げる音は、こんなふうに骨まで響いたりしない。
十三。
十三回目は、耳ではなく胸の奥で鳴った。低く、長く、街の骨組みごと揺するような音。夢のなかのわたしは、知らない大通りに立っていて、空はとうに色をなくしている。人が走っていく。大勢の人が、同じほうへ、同じ顔で。
その顔を確かめようとしたところで──
──目が覚める。いつもこうだ。
そして夢のくせに、目覚めたあとには決まって何かを思い出しかけたときの感触だけが残っている。
「……最悪」
見慣れた天井の染み。額に張りついた前髪。枕元の時計は五時十四分、秒針はきちんと回っている。当たり前のことに少しだけほっとした。この世界では、止まった時計は別の意味を持ってしまうから。
わたしは時任ソラ。二十二歳、時計庁監査局の二年目。
時間を巻き戻せる世界で、その使い道を見張るのが仕事だ。
壁の端末は、今朝もいつもの一行を表示している。
《遡行権:付与済み/本年分・未使用》。
時間遡行の権利は、成人した年の誕生日から一年に一回分だけ国民に配られる。使わなければ次の誕生日に消えて、新しい権利と入れ替わる。貯めることも、譲ることもできない。そして子どもにはそもそも配られない。転んでも、間違えても、取り返しのつかないまま歩いていく——戻せない時間の大切さを知った人にだけ、時間を戻す力を持たせる。この国は、そういう考え方でできている。
十八歳の誕生日、初めて自分に権利が付与された朝のことは、いまでも覚えている。嬉しさより先に、少しだけ怖かった。わたしの権利は、今年もたぶん使われないまま消える。ほとんどの人がそうだ。切り札というものは、切らずに終わるのがいちばんい良い。
身支度を整え、玄関に向かい、靴に足を入れる。屈んだ拍子に、下駄箱の上の写真立てが目に入った。三つ違いの姉。保針局の詰襟がよく似合っていた人。写真のなかの姉は五年前のまま、こちらを見て笑っている。
行ってきます、は言わない。言えば返事がないことに気づいてしまう。わたしは写真から目を外して、扉を開けた。
※
始業一時間前の路面電車は空いている。昔は乗り口、降り口に運賃箱というものがあって、乗車する人は皆料金を支払って乗車していた──と文献で見かけたことがあるが、親指の先ほどの物質で街一年分のエネルギーが賄える時代に、電車賃を取る理由はない。灯りも、熱も、物も、この世界には有り余っている。
──足りないものだけが、はっきりしている。
窓の外を、朝靄に包まれた斜塔街が流れていく。街の名の由来は、正面に見えてきた大時計塔だ。
その塔は、傾いている。
いまにも倒れそう、というわけではない。ただ、誰が見てもわかる角度で傾いたまま、千年間、時を刻みつづけている。千年前の大災厄のあと、人々はこの塔をあえて直さなかった——学校ではそう習う。欠けたまま、それでも時を刻みつづけること。それがこの街の誇りなのだと。
電車が塔の真下を過ぎる一瞬、幾人かの乗客が頭を下げた。老人は深く、学生は形だけ。わたしは今朝は、やめておいた。
十三の鐘の夢を見た朝は、あの塔をまっすぐ見たくない。理由を訊かれても困る。強いて言えば、傾いたものに祈っていると、自分の首まで一緒に傾いていく気がするのだ。
隣の席では、年配の婦人が膝の上の小箱を撫でていた。開いた蓋の内側に、止まった懐中時計が収まっている。ああ、と思う。誰かを見送ったばかりの人だ。
今の時代、人は簡単には死なない。病は兆しのうちに摘まれ、老いは静かに看取られる。それでも死は残った。そして昨日という日を巻き戻せるようになってなお、戻ってこられない人のほうが、ずっとずっと多い。ああして止まった時計を抱く人は、戻せなかった死を抱いている。
わたしは窓へ視線を逃がした。他人の止まった時計は、見つめるものじゃない。気づかないふりで、隣に座っているのが礼儀だ。
「監査局前ー、監査局前です」
放送を合図に伸びをして、頭を仕事に切り替える。今日は新任式。去年のわたしみたいに緊張で固まった新人たちの前で、進行役を務める日だ。
※
「——それでは、針法第一条。唱和」
講堂に五十人の声が重なる。
『遡行権は、悲劇を断つためにのみ執行される』
一年前、わたしも同じ条文を叩き込まれた。法律の条文はどれも似たような顔をしているのに、第一条だけは短くて、だから妙に忘れられない。
悲劇を断つ。きれいな言葉だ。財産や契約の巻き直しまで「悲劇」に数えるのは、いささか気前がよすぎる気もするけれど、法の言葉というのはたいてい、そうやって広がっていくものらしい。そして一年も働けば、そのきれいな言葉の下でどれだけ細かい仕組みが回っているかも、嫌でも見えてくる。
時間遡行の核心は、<基針>という装置である。
この星でただ一台、世界そのものを記録しつづけている機械だ。人も、建物も、雲の形も、降る雨の一粒まで。ただし、遡行可能なレベルで世界の情報を記録できるのは、一日分だけ。世界の一日分の記録というのは、それほどまでに膨大だ。だから遡行で帰れるのは、いつでも「昨日」まで。一昨日より前は、もう完全な記録としては残っていない。
そして遡行は、ひとりだけを過去へ運ぶ魔法ではない。基針が記録から世界を丸ごと組み直す——つまり、戻るときは全員一緒だ。街も、空も、あなたも、わたしも、そろって昨日へ帰る。帰ったことは、誰も覚えていない。やり直しの一日は、誰にとっても初めての一日として過ぎていく。
ただひとり、遡行権を執行できた本人を除いて。
権利を執行できた者の記憶だけは、基針が特別な回路で守り、巻き戻った世界で繋ぎ合わせる。だから遡行者だけが、消えた一日を知っている。世界でただひとり、二度目の昨日を歩くことができる。
遡行権は権利であるため、持っているだけでは何も起きない。申請し承認されてはじめて動く。いまこの瞬間にも世界中から届く「昨日へ戻りたい」を、基針が瞬時にふるいにかけ、選ばれるのは一日たったの二件。世界中で、二つきりの席だ。
二つの席には、それぞれ呼び名がある。ひとつは救済の席——死んだ人を、死ぬ前へ連れ戻すための席。救い戻しと呼ばれる尊い使い道だ。もうひとつは国の席。商いの席と呼ぶ人もいる。国の席は財産や契約の巻き直し、それに、名のある資産家や海の向こうの国々が大金を積んで買っていくのが、国の席だ。救済の席と、国の席。同じ「昨日」から切り出された、二つきりの席。
なぜ二つきりなのか。<基針>が世界を丸ごと組み直すたび、目に見えないひずみが残るからだ、と研修では教わった。一日に許されるやり直しは二度まで。それを超えれば、その「昨日」は永久に閉じられる。
式が終わると、新人たちを連れて庁舎を回った。列の後ろから、班長の眞鍋が講義とも独り言ともつかない調子で口を挟んでくる。五十がらみ、鍋底みたいに低い声の人だ。
「台帳局は記録、監査局は目付。ここまでは誰でもわかる。わからんのは三つ目だ」
掲示された組織図の右端で、〈保針局〉の枠だけが別の色に塗られている。
「保針局は基針の守り役だ。世界を巻き戻す、あの装置そのものを扱う。長官の直属で、予算も人事も表に出ん。おまけに——監査も入れん」
「監査局なのに、ですか」新人のひとりが訊いた。
「世界の心臓だぞ、あれは。下手に触らせて、万が一にも狂ってみろ。誰が責任を取る」
眞鍋は笑ったが、目は笑っていなかった。去年のわたしはこの話を、ふうん、で済ませた。組織に聖域のひとつくらいあるだろうと思ったし、実際、日々の仕事で保針局に関わることなどない。
今年のわたしも、まだ聞き流していた。
「いいか、お前ら」眞鍋が足を止める。「基針の裁定は速い。数秒で下る。だが速いというのは、その場では嘘を見抜けんということでもある。だから——」
「あとから、ぜんぶ見直す」
わたしが引き取ると、班長は鼻を鳴らした。
「それが監査局だ。世界がとっくに戻ったあとを、のこのこ調べて歩く。いつも手遅れの仕事だよ。」
手遅れの仕事。悪くない言い方だと思う。確定した時間の中にしか落ちていない真実というものも、あるのだから。
※
フロアに戻ると、壁の報道パネルが昼のニュースを映していた。
『——本日執行の二件のうちの一件です。第七工区の工場事故で資材の下敷きになった作業員三名について、ご遺族の救い戻し申請が受理されました。事故はなかったことになり、三名は今朝、いつもどおり出勤しています』
画面の記者が声を張る。『世界に二つの席の、ひとつです。元ご遺族は今年の権利を使い切りましたが、悔いはないと——』
今日の救済の席は、工場事故に使われたらしい。今日もどこかで多くの人が亡くなっている中、救済されたのはこの三人。残りは全員、昨日に置いていかれる。この世界でいちばん正しい──かは賛否両論あるだろうが、尊い使い道だ。
自分の机には持ち越しの案件が三件。どれも小物だった。商いの席を通った財産遡行の届出と、添付書類の食い違い——目を凝らさないと見えない程度の、小さな段差。そういう段差を見つけるのは、少しだけ得意だ。みんなが「まあいいか」でまたいでいく場所で、わたしはなぜか、つまずく。
「時任ァ」
眞鍋の声とともに、通知が一枚、机に滑ってきた。
「小物はあとだ。大きいのが来た」
死亡通知だった。久遠寺エマ、二十一歳、資産家の令嬢。死因より先に、赤い印字が目に飛び込む。
【台帳照会結果:死亡当日、当該名義の遡行権執行を確認】
「……本人が?当日にですか?」
「ああ。死ぬその日に自分で昨日へ戻って、そのうえで死んでいる」
街ではもう噂になっている、と眞鍋は言った。世界に二つきりの席をわざわざ引き当てた令嬢が、それでも死んだ。戻ったのに助からなかったのか。助かるために戻って、裏目に出たのか。筋の通らない死ほど、人を怖がらせるものはない。
「死の前後二十四時間の遡行は全件監査。規則は頭に入っているな。——ひとつだけ、先に言っておく」
顔を上げたわたしに、班長は面倒くさそうに、けれどはっきりと言った。
「台帳が記すのは、権利だ。人じゃない」
言葉の意味を測りかねているうちに、眞鍋の目はもう次の書類に落ちていた。
「記憶ひとつ過去へ運ぶだけでも、世界は濁る。ましてや記録だ。だから台帳は、必要なことしか書かん——どの権利が、いつ動いたか。それだけだ。……行ってこい」
あのときのわたしは、記録を鵜呑みにするなという程度の小言として、その言葉を聞いた。
それがこの事件の——そして、もっとずっと大きな何かの——最初の鍵だったと知るのは、まだ先の話だ。
読んでいただきありがとうございます。
そしてはじめまして。
北家 抜作と申します。
ミステリーが好きで初めて執筆をしてみました。設定を考えていると沼にハマってしまいますね...
自分の脳内がぐちゃぐちゃになっていますが皆様のもとにはきれいに整理して提供できるように頑張りますので応援してもらえると励みになります。書き溜めがあるのでとりあえずはサクサク更新し、ストックが尽きたら月一更新目指します!!!!




