遅れた歪み
※この物語はフィクションです。
あなたが観測するまでは。
夜明け前。
街はまだ眠りの底に沈んでいる。
音は少なく、光も薄い。
それでも世界は動いている。
止まらない仕組みとして、静かに回り続けている。
何も変わっていない。
そう見えるだけで。
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悟は目を覚ました。
眠りは浅い。
夢の記憶はない。
だが、違和感だけが残っている。
胸の奥に引っかかったままの、小さな棘。
「……」
身体を起こし、スマホに手を伸ばす。
指先が画面に触れる直前で、止まる。
昨夜、決めたこと。
何もしない。
それは逃げだったのか、選択だったのか。
まだ答えは出ていない。
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窓を開ける。
冷たい空気が部屋に流れ込む。
遠くで新聞配達のバイクの音。
普通の朝だ。
何も変わらない、はずの朝。
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外に出る。
通りには、いつもと同じリズムが流れている。
信号。足音。エンジン音。
誰もが“いつも通り”を疑っていない。
その中で、悟だけが取り残されているようだった。
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「おーい」
気の抜けた声が飛んでくる。
振り向くと、
吉田凪 が片手を上げていた。
「朝からその顔はアウトだろ」
「うるせぇ」
「寝てねぇなそれ」
凪は隣に並び、歩幅を合わせる。
変わらない距離。
変わらない空気。
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「なあ」
悟がぽつりと漏らす。
「昨日さ」
「ん?」
「何もしてないんだよ」
凪は少しだけ首を傾げた。
「……それが?」
「いや、なんでもない」
言葉がうまく形にならない。
何もしなかったことの重さを、どう説明していいか分からない。
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凪は小さく笑う。
「たまにはいいだろ、そういう日も」
缶コーヒーを開ける音。
「毎日なんかしてる方が異常だわ」
軽い調子の一言。
だが、その軽さが妙に引っかかる。
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「……そうかもな」
悟は短く返す。
だが胸の奥の違和感は消えない。
むしろ、少しずつ輪郭を持ち始めている。
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そのとき。
遠くでサイレンが鳴った。
救急車。
珍しくもない音。
日常の中に紛れているはずの音。
なのに、今日は妙に耳に残る。
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凪は一瞬だけ視線を向けて、
「朝から大変だな」
それだけ言って、前を向く。
普通の反応。
それが普通だ。
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悟だけが、その音を追っていた。
見えない何かを、探るように。
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場面が切り替わる。
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班目唯 は机に向かっていた。
紙が広がっている。
事故。失踪。小さな事件。
どれも目立たない記事。
だが並べると、妙な違和感が生まれる。
「……タイミングが」
発生時刻。
発覚の遅れ。
報道の順番。
すべてが微妙にズレている。
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偶然にしては、揃いすぎている。
「おかしい……」
呟く。
だが、それが何を意味するのかはまだ分からない。
ただ、
何かが裏で調整されているような気配だけが、確かにある。
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再び、悟。
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交差点で立ち止まる。
人の流れが交差する場所。
信号が変わる。
足が動く。
誰もが迷いなく進む。
その中で、
ほんの一瞬、ズレを感じた。
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次の瞬間。
自転車の急ブレーキ音。
タイヤが擦れる。
軽い接触。
小さなざわめき。
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「すみません!」
「大丈夫ですか?」
よくある光景。
怪我もない。
騒ぎにもならない。
すぐに元通りの流れに戻る。
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だが悟は、動けなかった。
視線が、その一点に縫い付けられる。
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ほんの数秒。
タイミングが違っていれば、事故になっていた。
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「……」
昨日の選択が、脳裏に浮かぶ。
壊さなかった。
止めなかった。
関わらなかった。
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その結果。
世界はそのまま進んだ。
ズレたまま。
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「……そういうことか」
悟は小さく呟く。
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壊すか、壊さないか。
そんな単純な話じゃない。
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何もしないという選択もまた、世界に影響する。
しかもそれは、目に見えない形で確実に積み重なっていく。
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空を見上げる。
青い。
何の問題もないような色。
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だが、その下で
確実に歪みは広がっている。
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悟はスマホを取り出す。
画面を開く。
昨日、閉じたままの情報。
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指が、ゆっくりと動く。
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止めるのか。
壊すのか。
それとも——
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答えは、まだ出ない。
だが一つだけ確かなことがある。
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選ばなかった時間は、もう戻らない。
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静かに。
だが確実に。
何かが、動き出していた。
——この物語は、あなたに観測されたことで成立しました。




