正しさの基準
※この物語はフィクションです。
あなたが観測するまでは。
夕方。
⸻
教室は、ほとんど人がいなくなっていた。
⸻
窓の外は、少しだけ赤い。
⸻
残っているのは数人。
⸻
宮島悟も、その一人だった。
⸻
席に座ったまま、動かない。
⸻
⸻
「まだ帰らねえの?」
⸻
声。
⸻
吉田凪。
⸻
カバンを肩にかけたまま、軽い調子で近づいてくる。
⸻
⸻
「……ああ」
⸻
⸻
「珍しいな」
⸻
凪は隣の席に腰を下ろす。
⸻
⸻
「いつもさっさと帰るのに」
⸻
⸻
悟は何も言わない。
⸻
⸻
視線は机の上。
⸻
⸻
そこには——
⸻
⸻
翁。
⸻
⸻
置いた覚えはない。
⸻
⸻
だが、そこにある。
⸻
⸻
「……」
⸻
⸻
凪が気づく。
⸻
⸻
「それ、何?」
⸻
⸻
一瞬。
⸻
⸻
悟の視線が動く。
⸻
⸻
「……分からない」
⸻
⸻
正直に言う。
⸻
⸻
「は?」
⸻
凪が笑う。
⸻
⸻
「持ってんのお前だろ」
⸻
⸻
「……」
⸻
⸻
答えない。
⸻
⸻
凪は興味なさそうに視線を外す。
⸻
⸻
「まあいいけど」
⸻
⸻
一拍。
⸻
⸻
「それよりさ」
⸻
⸻
少しだけ真面目な声になる。
⸻
⸻
「昨日のあれ」
⸻
⸻
「……何だ」
⸻
⸻
「トラックのやつ」
⸻
⸻
空気が少し変わる。
⸻
⸻
「マジで危なかったよな」
⸻
⸻
「……ああ」
⸻
⸻
「でもさ」
⸻
⸻
凪が机に肘をつく。
⸻
⸻
「助かったじゃん」
⸻
⸻
軽く言う。
⸻
⸻
「結果的に」
⸻
⸻
その言葉。
⸻
⸻
また、引っかかる。
⸻
⸻
「……結果」
⸻
⸻
悟が小さく繰り返す。
⸻
⸻
「そう」
⸻
凪は頷く。
⸻
⸻
「怪我もしてねえし、誰も死んでない」
⸻
⸻
「それでよくね?」
⸻
⸻
一拍。
⸻
⸻
悟は、ゆっくりと顔を上げる。
⸻
⸻
「……その結果は」
⸻
⸻
静かに言う。
⸻
⸻
「どうやって出た」
⸻
⸻
凪が少しだけ首を傾げる。
⸻
⸻
「は?」
⸻
⸻
「偶然か?」
⸻
⸻
続ける。
⸻
⸻
「それとも」
⸻
⸻
一瞬。
⸻
⸻
言葉を選ぶ。
⸻
⸻
「……誰かが変えたのか」
⸻
⸻
凪は、少しだけ黙る。
⸻
⸻
そして。
⸻
⸻
「何言ってんだお前」
⸻
⸻
笑う。
⸻
⸻
「そんなわけないだろ」
⸻
⸻
「……」
⸻
⸻
悟は何も言わない。
⸻
⸻
だが。
⸻
⸻
頭の中には、はっきりある。
⸻
⸻
“変わった瞬間”の感覚。
⸻
⸻
「……もし」
⸻
⸻
小さく言う。
⸻
⸻
「誰かが変えたとして」
⸻
⸻
凪は、興味なさそうに聞いている。
⸻
⸻
「それでも」
⸻
⸻
一拍。
⸻
⸻
「正しいと思うか」
⸻
⸻
凪は少し考える。
⸻
⸻
そして、すぐに答える。
⸻
⸻
「思うね」
⸻
⸻
あっさりと。
⸻
⸻
「だって助かってんじゃん」
⸻
⸻
「それ以上何がいるんだよ」
⸻
⸻
迷いがない。
⸻
⸻
悟は、その言葉を聞いたまま動かない。
⸻
⸻
「……過程は」
⸻
⸻
「どうでもいい」
⸻
⸻
凪がかぶせる。
⸻
⸻
「結果が全部だろ」
⸻
⸻
その瞬間。
⸻
⸻
悟の中で、何かが揺れる。
⸻
⸻
「……」
⸻
⸻
言葉が出ない。
⸻
⸻
否定も、肯定もできない。
⸻
⸻
ただ。
⸻
⸻
理解してしまう。
⸻
⸻
自分がやっていることは。
⸻
⸻
その“結果”を作ることだと。
⸻
⸻
■
⸻
夜。
⸻
部屋。
⸻
⸻
静寂。
⸻
⸻
机の上。
⸻
⸻
翁。
⸻
⸻
じっとそこにある。
⸻
⸻
悟は、それを見ている。
⸻
⸻
「……結果か」
⸻
⸻
小さくつぶやく。
⸻
⸻
人が助かる。
⸻
世界が良くなる。
⸻
⸻
それが正しいなら。
⸻
⸻
「……問題ない」
⸻
⸻
一瞬。
⸻
⸻
そう思う。
⸻
⸻
だが。
⸻
⸻
次の瞬間。
⸻
⸻
違和感。
⸻
⸻
「……誰が決める」
⸻
⸻
その問いが、残る。
⸻
⸻
自分か。
⸻
⸻
それとも。
⸻
⸻
別の何かか。
⸻
⸻
ゆっくりと手を伸ばす。
⸻
⸻
翁に触れる。
⸻
⸻
その瞬間。
⸻
⸻
視界が歪む。
⸻
⸻
また、記憶。
⸻
⸻
今度は。
⸻
⸻
“選んでいる”
⸻
⸻
自分。
⸻
⸻
誰かの運命を。
⸻
⸻
「……」
⸻
⸻
手を離す。
⸻
⸻
呼吸が乱れる。
⸻
⸻
「……違う」
⸻
⸻
小さく言う。
⸻
⸻
だが。
⸻
⸻
否定しきれない。
⸻
⸻
もう。
⸻
⸻
“選んでいる側”に近づいていることを。
——この物語は、あなたに観測されたことで成立しました。




