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第一章 3-2

 ボーン、ボーン、と聖レイラ教会の地を這うような鐘の音が宵二刻(午後十時)を告げた。

 帝都に帰ってきたばかりだというのに、座る暇もなく働き通しだったグリゴリーは、ようやく帰路に着こうと外套を羽織る。


 提燈ランタンを片手に宮殿を出ると、辺りはすっかり闇に落ちていた。

 ブルマン地区と違って、こちらは八の月でも少し肌寒い。

 正門の脇には既に漆黒の馬車が控えており、近づくと、黒い毛並みが美しい愛馬がブルルと鼻を鳴らして出迎えてくれた。


「グリゴリー・エローヒン様でいらっしゃいますか」

「っ?」


 愛馬の影から、突如少年の声がして虚を突かれる。


 ――私としたことが、この距離まで気がつかないなんて。


 常に警戒心を絶やさぬよう努めているグリゴリーなのに、その少年は、まるで闇夜に溶け込むように気配がなかったのだ。


「誰だ」


 咄嗟に提燈を翳すと、少年の世にも珍しい金の双眸と目が合った。

 その瞬間、少年の顔に何故か動揺が広がったのが見て取れた。

 動揺……というよりこれは恐怖か?

 自分から声をかけてきたくせに、狼のような金眼を見開き青い顔で固まっている。


 まあ、怖がられるのには慣れているが。


「おい。誰だと聞いている」

「っ、あ、失礼」


 少年はまだ青い顔でそう言って、腹の辺りを擦ってから恭しく礼をした。

 年の頃はイヴァンと同じくらいに見えるが、緊張して腹でも下したのだろうか。

 グリゴリーは少し肩の力を抜いて見守る。


「陛下の小姓をしているルカ・ヴォルコフと申します。陛下の命により、ここで馬の番をしておりました」


 ルカ・ヴォルコフ……どこかで聞いたような名だと思えば、ミーティス殿下が離宮から連れ帰ったという農奴のことか。

 そういえば彼は、過保護なマクシミリアンの独断によりミーティスから引き離されて陛下付きの小姓をやらされているんだったか。

 いつ来るかわからない自分のために、こんな遅くまで野外で馬の番をさせるとは……陛下はよっぽど彼に暇を与えたくないらしい。


 同じ主君に振り回される者同士、少し同情してしまう。


「そうか。遅くまでご苦労だったな」

「いえ。すぐに御者殿を呼んで参ります」

「あ、おい――」

 

 何の灯りも持たずに駆け出したルカに、グリゴリーは驚いて声をかける。

 しかし声は届かなかったようで、彼の背中はあっという間に闇に呑まれてしまった。


「……よく走れるな」


 提燈が無ければ、自分の手の平さえ見えぬ暗さだというのに。

 あの少年は一切の迷いなく軽やかに駆けていったではないか。

 まるで彼には道が見えているかのように。


「瞳に太陽を宿した男神、か」


 グリゴリーがふとブルマン地区で押収した旧聖書の一節を思い出していると、ほろ酔いの御者が提燈を片手に戻ってきた。

 どうやら少年に馬の番をさせて、自分は一杯ひっかけてきたらしい。

 まあ、ブルマンからの長旅を終えた直後だから気持ちはわかるが……。


「家に帰るまでが仕事だからな、頼むぞ」


 グリゴリーは御者の酔いを覚ますように肩を叩いてから、馬車に乗り込んだ。



 ***



 首都ツェントルアイズ中央を縦断する目抜き通り。

 そこから一本脇道に入ったところにあるエローヒン公爵別邸で、当主であるグリゴリーは久々に自宅での朝を迎えていた。


 窓から入る朝日が眩しく、横たわったまま眉をひそめて唸る。

 次の瞬間には、カッと目を見開いて起き上がった。


 ――まずい、寝過ごしてしまった。


 時刻は曙二刻(午前六時)。

 寝坊と言うには早過ぎる時刻なのだが、普段から日の出前には身支度を整え終えているグリゴリーを焦らせるには十分な刻限だった。

 何せ自分が出勤しないと、あの皇帝は何にもしやしないのだ。


 グリゴリーが忙しなく身支度をしていると、コツコツと寝室の戸をノックする音が聞こえた。


「入れ」

「おはようございます、父上」


 戸に背を向けたまま答えると、二人分の足音と息子の声が聞こえてくる。

 振り向く暇もないが、どうやらイヴァンが従者を連れてやってきたらしい。


「イヴァンか?」

「はい。昨晩はお出迎え出来ず申し訳ありませんでした。お待ちしていたのですがなかなか戻られなかったので、昨日はもう皇宮にお泊まりになるのかと」

「ああ、気にするな。御者が道を間違えたのだ」


 宮殿からこの別邸までは歩いても一刻とかからない距離だというのに、あのほろ酔い御者のせいで歩くよりも時間がかかってしまったのだ。

 結局、グリゴリーが帰宅したのは日付が変わった頃だった。

 イヴァンが待ちきれずに寝てしまうのも無理はない。

 というか、殊勝にも父の帰りを寝ずに待とうとしていたのか?


 ……何か引っかかるな。


「それで父上、お頼みしていた本は……?」


 ためらいがちに口を開いたイヴァンに、グリゴリーは従者にブラウスのボタンを留められながら「あ」と呟いた。

 そういえば南方視察に行く前、イヴァンからブルマン地区でブーマンディの古書を探してきて欲しいと頼まれていたんだった。


「すまん、忘れていた」

「っ! そう、ですか……」


 露骨にがっかりした声で言う息子の返事を聞いて納得する。

 さては、寝ずに待っていたのはそちらが目当てだったな。


「それよりも大事な話がある。ミーティス殿下がおまえに会いたいと仰っているのだ」


 グリゴリーは息子に背を向けたまま単刀直入に言う。


「え、僕に?」

「ああ。近々謁見の日取りを整えるつもりだ」

「随分と急ですね。将来婚約するかもしれないとは聞いていましたが」

「まあな。婚約はまだどうなるかわからんが、いずれにせよ将来お前がお仕えする方だ。くれぐれも失礼のないように気をつけ……ろ?」


 やっと着替えを終えたグリゴリーは、ひと月ぶりに息子の姿を見ようと振り返る。

 そこで、眉間に拳を強く押し当てねばならなくなった――。


「その格好は何だ?」


 イヴァンは、一見すると貴公子を絵に描いたような理想的な令息である。

 エローヒン家の長男であり皇帝にも推薦されている彼は、将来ミーティスの婿となる可能性が高かった。

 グリゴリーもそれを見越し、領地の管理を妻に任せ、イヴァンのみを帝都の別邸に同伴させて英才教育を施してきたのだ。

 勉学の成績は概ね上々であった。

 さらに、父の目から見ても息子の外見は整っている。

 垂れ目がちな漆黒の瞳と純朴な笑顔は、この年にして落ち着いた魅力を醸し出していた。


 しかし、一つ問題があるのだ。


「これですか? ふふ、いいでしょう! 東方の商人から手に入れた“紋付袴”という服なんですが、大陸極東にあるイルナラ王国での第一正装なんだとか!」


 イヴァンは行き過ぎた異国趣味エキゾチシズムの持ち主なのだ。


 やたらと角ばった見たこともない珍妙な出で立ちをしている息子に、グリゴリーはぐりぐりと眉間を拳で揉みしだく。

 一体どこで育て方を間違えたのだろう……。

 様々な外国語に触れさせようと、異国の図書を買い与えたのがまずかったか。

 目を輝かせながら鼻息荒く熱弁するイヴァンを前に、グリゴリーは数秒言葉を失ってから深い溜め息を吐く。


「ここはアイズベルグだ、イルナラではない。間違ってもそんな格好で謁見に行くなよ」

「ご心配なく父上。それくらいは心得ておりますよ」

 語気を強めるグリゴリーに、イヴァン少年は恭しく胸に手を当ててふにゃりと笑う。

 ああもう不安しかない。


「フィリップ、後は頼む」

「お任せください、旦那様」


 グリゴリーは頭を抱えながら、息子の半歩後ろに控える有能な侍従の青年に向けて言う。

 すると彼はグリゴリーの言葉にきびきびと礼をして、


「さ、着替えますよイヴァン様」

「え、ちょっと待って? ……ぐえっ!」


 イヴァンの首根っこを掴んで部屋の奥へと引っ張っていった。

 フィリップはただの侍従ではなく、イヴァンより一つ年上の乳兄弟でもある。

 赤ん坊の頃から共に過ごしてきた二人は主人と侍従以上の関係であり、たとえイヴァンの方が立場が上であっても、フィリップは問答無用で間違いを正してくれるのだ。

 彼に任せておけば、ひとまず宮殿の衛兵に門前払いされるのだけは避けられるだろう。

 

 グリゴリーはやれやれと外套を羽織って足早に外に出る。


 ――我が息子とミーティス殿下がご結婚し、皇帝の座がイヴァンに渡ったら、この国はどうなってしまうのだろう。


 考えなしに異国と自由貿易を始めたり、無秩序に難民を受け入れたりしないだろうか。

 我が息子ならやりかねん。


「っ」


 グリゴリーは馬車に乗り込みながらそんな未来を想像して、はたと気付いてしまった。

 

「あいつ……自分が皇帝の座を降りた後も、私にこの国の面倒を見させるつもりか」


 小鳥囀る気持ちの良い朝。

 二日酔いの御者に弱々しく鞭を打たれた黒い馬車だけが、場違いなほど悲壮感を放っていた。

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