第5話 神界財務監査、着任
そこは、凡庸な人間の生涯では一生かかっても拝むことのできない、絢爛豪華なる黄金の世界であった。
第2セクター管轄の主要神界の一つ『豊穣と繁栄の神殿』。
見上げるほど高く聳え立つ大理石の回廊には、純金と翡翠で彩られた女神像が並び、天井のフレスコ画からは常時、芳醇な果実の香りと「祈りの余韻」が光の粒子となって降り注いでいる。
足元に敷き詰められた白銀の絨毯は、一歩踏みしめるごとに信徒たちの信仰心が心地よい微振動となって足裏に伝わる仕組みになっていた。
だが、その洗練された神域の静寂は、無機質な革靴の足音によって容赦なく踏みにじられた。
「——当神殿の『神格資産』および『異世界ビザ優先発給枠』に対する、緊急立ち入り監査を開始します」
重厚な両開きの扉を押し開けたのは、漆黒の三つ揃いスーツに身を包んだ男。
神界監査局(DAB)第3査察執行部・上席監査官、レヴァニエル・サリムであった。
白銀の髪を寸分の狂いもなく撫で付け、細いフレームの眼鏡の奥から放たれるアイスブルーの瞳は、目の前の豪華絢爛な装飾など一顧だにせず、左手に提げた黒革のバインダー――『監査用概念帳簿』の頁をめくっている。
そのすぐ後ろで、使い古した制服のネクタイを緩め、だるそうに肩をすくめているのが、境界出入国管理局・第2審査課の一般審査官、セイジ・イマミヤだ。
「はぁ……いつ来ても目が眩む空間ですね、レヴァンさん。これだけ金ピカだと、手入れするだけでも相当な神格エネルギーを浪費してそうだ」
「無駄遣いは彼らの自由ですが、その原資が不法に得られたものであれば話は別です。イマミヤ審査官、出入国手続きの立会人として、記録漏れのないよう頼みます」
「はいはい。任されてますよ」
セイジはポケットから赤いペンを取り出し、キャップをカチカチと鳴らしながら、白目を剥いて怯えている新人審査官補・ジャムリンの背中を軽く叩いた。
「ほらジャムリン、口が開いてるぞ。今日は見学じゃない、ガサ入れだ」
「は、はいっ! でもセイジ先輩、相手は第2セクターでも有名な『豊穣の神様』ですよ!? 本当にこんな、事前通告もなしに乗り込んじゃって大丈夫なんですか……!?」
「いいんだよ。事前通告なんてしたら、おいしい裏帳簿を全部焼却炉に放り込まれるだけだからな」
セイジがケロリと言い放ったその時、回廊の奥から地響きのような怒号が轟いた。
「不礼者めが! 誰の許可を得て、この聖なる『デメテルオス神殿』に足を踏み入れているのだ!!」
威風堂々たる足取りで姿を現したのは、深紅の絹地に金の刺繍を施した豪華な衣装を纏った巨漢――豊穣と繁栄の神・デメテルオスであった。
豊かな蓄え髭をなびかせ、背後には後光のような黄金の神威をメラメラと揺らめかせている。
その左右には、光り輝く槍を構えた神殿騎士たちがずらりと立ち並んでいた。
「DABの青二才どもが……! 私は人々に実りを与え、幾つもの世界に繁栄をもたらしてきた高位の神だぞ! 出入国管理局のしがない平役人と、監査局の狗ごときが、この私を咎めようというのか!」
デメテルオスが朗々と声を張り上げると、神威の圧力が空間を圧迫し、ジャムリンが「ひっ……!」と悲鳴を上げて思わず膝をつきそうになった。
だが、レヴァニエルは表情一つ変えず、視線すら上げずに帳簿に目を落としたままであった。
「豊穣神デメテルオス。貴殿の『神としての功績』に興味はありません。我々が調査しに来たのは、貴殿の『会計』です」
レヴァニエルが静かに右手を挙げると、彼の背後から、同じく黒のスーツに身を包み、腕に『DAB会計査察』の章を巻いた十数名の男たちが、揃いの無表情でぞろぞろと足を踏み出してきた。
「査察部隊、配置につけ。神殿内のすべての魔導金庫、裏回線、ならびに過去百年分の祈祷エネルギー還元記録を押収・開示させなさい」
「な……なにぃ!?」
デメテルオスの顔が引きつった。
「無礼者どもを叩き出せ! 神聖なる神殿を汚すな!」
デメテルオスの怒号に応じ、神殿騎士たちが一斉に光の槍を構えて飛び出そうとした。
しかし、査察官たちの一人が無造作に胸ポケットから一枚の書類を取り出し、淡々と掲げた。
『神界最高監察庁発給・緊急立ち入り査察令状』
「神界基本法第88条およびDAB査察規定に基づき、査察官に対する一切の妨害行為は、即座に『神権に対する不敬および公務執行妨害』とみなされ、現場での神権一時凍結(赤札)の対象となります。……お引き下がりを」
査察官の平然とした声に、神殿騎士たちは顔を見合わせ、怯えたように槍を下ろした。
神権凍結、それは神に仕える者たちにとっても、存在の根幹を揺るがす恐怖の通達だからだ。
「くっ……ええい、勝手に調べるがいい! 私はやましいことなど何一つしていない! 信徒たちから預かった祈りはすべて、正当に世界の発展のために還元している!」
デメテルオスは腕を組み、高飛車に鼻を鳴らした。
だが、セイジは神殿の壁際に配置された、巨大な『水晶魔導計測器』の前に歩み寄り、虫眼鏡を取り出してその表示数値を覗き込んでいた。
「……ふむ。デメテルオス神。あなたの神殿の『公式神格収入』は、年間でおよそ三億カルマ。第2セクターの中堅神殿としては、まあ妥当な数字ですね」
「当然だ! 私は過不足なく清廉に運営している!」
「ええ、表向きは」
セイジは赤いペンで、計測器の下部に隠されていた微小なルーン文字のバイパス回路をコンコンと叩いた。
「ですがね、この裏回線……。神殿の地下大金庫から、別の『未知の次元ノード』へ向けて、年間でおよそ十億カルマ相当の精製神格エネルギーが、毎月決まった日に自動送金されていますよ」
「な……ッ!?」
デメテルオスの顔から、すっと血の気が引いた。
「ジャムリン、メモを取れ」
セイジが淡々と指示を出す。
「信者から集めた『純粋な祈り』を、神界へ報告する公式帳簿から意図的にハネて隠蔽。いわゆる『神格エネルギーの脱税』だ。さらに、当管理局が第2セクター用に割り当てていた【聖剣士ビザ】および【特級魔法発給枠】の年間百件のうち、実に七割が、審査を通らずにこの神殿の裏ルート経由で消えている」
「七割……!? そんなにですか!?」
ジャムリンが目を剥く。
レヴァニエルが静かに歩み寄り、黒革の帳簿をデメテルオスの鼻先に突きつけた。
「帳簿の整合性を確認しました。——デメテルオス神。貴殿が隠蔽した十億カルマの神格エネルギーと、不正に横流しした特例ビザ枠の送金先。その口座名義は、境界世界の闇で蠢く不法ブローカー組織『蛇の目』となっています」
「言いがかりだーっ!!」
デメテルオスが金切り声を上げた。
「私は知らん! 外部の不法組織など知らんのだ! それは……そうだ、下級の神殿事務官が勝手にやったことに違いない! 私のあずかり知らぬところでの不正だ!」
「トカゲのしっぽ切り、ですか」
セイジは心底呆れたように溜息をついた。
「下級事務官に、神殿の最深部にある『神格印章』のアクセス権限があるわけないでしょう。お苦しい言い訳は、当関の取調べ室でたっぷり伺いますよ」
「ええい、黙れ黙れ黙れぇい!!」
追いつめられたデメテルオスが、ついにその本性を剥き出しにした。
黄金の衣装が激しく羽撃き、神殿全体が激しい地響きとともに揺れ始める。天井のフレスコ画から光が失われ、不気味な赤黒い神威が、デメテルオスの全身から激流となって噴き出した。
「たかが人間! お前たちのせいで、こんなシステムができよった! くそっ、この私を裁こうなどと百年月早いわ! この神殿ごと、貴様らを灰燼に帰してやる! 『神罰』の光に焼かれるがいい!!」
神殿の空気が狂暴な魔力で満たされ、大理石の床がメキメキと亀裂を割っていく。
神殿騎士たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、ジャムリンは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「セイジ先輩! 神様が暴走しちゃいましたぁっ!」
「ちっ……これだからプライドだけ高い腐敗神は困る」
セイジはポケットから「次元胃痛薬」を取り出して口に放り込むと、素早く胸のポケットから一枚の『黄色い特例用紙』を引き抜いた。
「レヴァンさん! 『緊急差し押さえ条項』の適用を!」
「言われるまでもありません」
レヴァニエルのアイスブルーの瞳が、凍てつくような冷酷な光を放った。
特例用紙『緊急差し押さえ申請』を受け取ったレヴァニエルは黒革の帳簿から、極太の赤文字でルーンが刻まれた特大の執行票——『特級差し押さえ命令(極大赤札)』を指先でスッと引き抜いた。
「神界管理法第102条違反。ならびに巨額の不法神格エネルギー売却、および公務員に対する暴行・殺害未遂。——これより、デメテルオス神の神格、全資産、および神域の所有権を即時凍結・差し押さえます」
レヴァニエルが『極大赤札』を宙に掲げ、朗々と告げた。
「神権全停止——発動(極大赤札発給)」
バシィィィィィィィンッ!!!!
神殿の天井を突き破るほどの真っ赤な雷光が奔走した。
デメテルオスが放とうとしていた赤黒い『神罰』の光が、まるで冷水を浴びせられた炎のように、一瞬で鎮火していく。
「ぐあぁっ!? 私の……私の神力が……流れ込んでこない!?」
「当たり前だ」
セイジがクールに言い放つ。
「あなたの神力の源泉である『信徒からの祈り』の口座は、たった今、DABによって全額凍結されました。無一文の神様が、神罰なんて撃てるわけがないでしょう」
「さあ、査察部隊。作業を開始しなさい」
レヴァニエルが静かに命じた。
「はいっ!」
DABの会計査察官たちが一斉に動き出した。
彼らは鞄から、黄色いルーンが印刷された『封印符(差し押さえテープ)』のロールを大量に取り出すと、逃げ惑うデメテルオスを無視して、神殿内のあらゆるものにペタペタと遠慮なく貼り付け始めた。
「あ、それ、純金製の女神像! 差し押さえテープペタっ!」
「こっちの黄金の宝箱も! 差し押差し押さえテープペタペタっ!」
「あっちの高級ワインセラーと、デメテルオス神の着ている豪華な衣装も! 差し押さえ、ペタっ!」
「やめろ……やめてくれぇ! 私の財産が! 私の栄華がぁぁぁっ!」
神力を失い、ただの「派手な服を着た太った中年男」と化したデメテルオスは、黄色いテープだらけになった黄金のフロアで、なりふり構わず這いつくばって泣き叫んだ。
その姿は、かつて人々に信仰を強いていた神の威光など欠片もなく、ただの惨めな破産者のそれであった。
「……ふぅ。見事な手際ですね、レヴァンさんの部下たちは」
ガラガラになった神殿の回廊で、セイジは缶コーヒーのプルタブを開け、冷めた液体を口に含んだ。
神殿の黄金の装飾には、見渡す限り黄色い『差し押さえテープ』が貼り巡らされ、デメテルオス本人は、駆けつけた次元検察庁のガルム執行官の手によって『概念封印鎖』で重々しく縛り上げられていた。
「手際が良いのは当然です。彼らは神々の不祥事を洗うためだけに訓練されたプロですから」
レヴァニエルは静かに帳簿を閉じると、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
だが、その表情は事件解決の晴れやかさとは程遠く、どこか重々しい懸念に包まれていた。
「……どうしました、レヴァンさん?」
「イマミヤ審査官。連行される際、デメテルオスが呟いていた言葉を聞きましたか?」
「ん? ああ……『私は言われた通りにビザ枠を売っていただけだ。上からの指示だと思っていた』ってやつですか?」
「ええ」
レヴァニエルは静かに頷いた。
「デメテルオスのような中堅神が一神殿でやれる隠蔽工作には限界があります。……十億カルマもの神格エネルギーと特例ビザ枠が、DABや管理局の監査を長年すり抜けて流出していたなど、やはり異常です。彼の背後には、さらに上位の存在——『神界最高評議会』の有力者が絡んでいる可能性が極めて高い」
「最高評議会、ねぇ……」
セイジは顔をしかめ、自分の首をゴリゴリと鳴らした。
「神様のトップたちが、裏で不法ブローカーと手を組んでチートを売さばいてる、か。……勘弁してくださいよ。そんな大事になったら、僕の残業代じゃまったく釣合いが取れません」
「ふふ、違いありませんね。ですが……正すべき不正がある限り、私は『赤札』を切り続けるまでです」
レヴァニエルは微かな笑みを浮かべ、セイジに向かって軽く一礼した。
「立会い、ご苦労様でした、イマミヤ審査官。監査局からの協力感謝手当は、後ほど貴課の予算に回しておきます」
「よし、それで胃薬をカートン買いしますよ」
レヴァニエルは真面目な顔でセイジのくたびれた顔を見つめる。
「君はシゴデキなんですがね……。もっと上を目指さないんですか?」
「嫌です、俺はほどほど働ければ充分です。うちの上司なんて、俺より死にそうな顔してますよ……」
◇◇◇
『境界ターミナル Central-0』、第2審査課のフロア。
神界への出張査察から戻ったセイジとジャムリンを迎えたのは、山積みにされた書類の陰から死にそうな顔を覗かせる、マルティン統括審査官であった。
「……お帰り、イマミヤ君。デメテルオス神殿の差し押さえの件、早くも神界上層部から猛抗議の通信が入っているぞ……」
「お疲れ様です、統括。抗議の紙は全部、シュレッダーにかけておいてください。あ、これ、今回押収した裏帳簿のコピーです」
セイジが厚い書類の束をデスクにドンと置く。
「胃が……私の胃がぁ……」
マルティンは頭を抱えて小瓶から薬を飲んだ。
「先輩……なんだか、どんどん大変なことになってきましたね……」
ジャムリンが不安そうにセイジの袖を引く。
セイジはデスクの椅子に深く腰掛けると、冷めたコーヒーを飲み干し、いつもの赤ペンをカチリと鳴らした。
「気にすることはないさ、ジャムリン。どれだけお偉い神様が裏で糸を引いていようが、窓口に来る奴はみんなただの『申請者』だ。……ルールを守る奴にはビザを、破る奴には『リジェクト』のスタンプを押す。それだけだよ」
セイジはきゅっとネクタイを締め直し、コンコースに広がる長蛇の列に向かって、力強く声を張り上げた。
「——次の審査の方、どうぞ!」
境界ターミナル Central-0。
神界の深遠なる闇に手が届き始めてもなお、役人たちの泥臭くも痛快な日常は、止まることなく動き続けていくのだった。




