第3話 名もなき英雄に花束を
窓口に流れる時間は、ときに残酷なほど無機質だ。
『境界ターミナル Central-0』の第2審査課フロア。
無数の魂がベルトコンベアのように流れるカウンターの前で、新人審査官補のジャムリンは、書類の束を抱えたまま唇を噛み締めていた。
「な、なんでですか……! この人、火災現場で幼い娘さんと近所の子どもたちを助けるために、一人で炎の中に飛び込んで命を落としたんですよ!? なのに、なんで『辺境の下級開拓民』への転生ビザしか出ないんですか!?」
ジャムリンの声が高く響き、周囲の審査官たちが一瞬だけ眉をひそめた。
カウンターの前に立っていたのは、くたびれた作業着を着た中年男性の魂『小林勝』だった。
生前は小さな町工場で働いていたという彼の魂は、炎に焼かれた苦痛の記憶を抱えながらも、静かで穏やかな瞳をしていた。
「いいんだよ、お嬢さん。俺はね、娘が助かったってだけで十分なんだ」
小林は申し訳なさそうに頭をかき、控えめに笑った。
「俺みたいな大した才能もない男が、死んだあとにまで贅沢を言っちゃバチが当たる。それに……俺の命と引き換えに、残された妻や娘がこれから不自由なく暮らせるなら、俺はどんな過酷な世界に生まれ変わったって構わないんだ」
「そんな……っ!」
ジャムリンの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
昨日審査したような、自己中心的な欲求を叫んでチートをねだる転生者には「最高級の無双ビザ」を要求する図々しさがある。
しかし、真に他人のために命を賭した善人が、己の欲のなさゆえに低ランクの過酷な転生先へと追いやられるこのシステムの不条理に、若いジャムリンは耐えかねていた。
「自己アピール数値、およびカルマ自己申告点の不足……ね」
隣のデスクから、冷めたコーヒーのカップを置く音がした。
セイジ・イマミヤが、いつものように疲れた手つきで厚い『次元出入国管理法規集』をめくりながら会話に割り込んでくる。
「当管理局の自動評価システムは、魂自身が『どれだけ報酬を求めるか』というアピール値も点数化してしまうからな。謙虚で自己犠牲的な魂ほど、システム上は『望みが薄い』と判定されて低いランクに分類される。……つくづく、融通の効かない欠陥システムだよ」
「セイジ先輩! なんとかできないんですか!? 自慢げにチートをねだる奴が得をして、こんなに優しいおじさんが損をするなんて、絶対におかしいです!」
「声が大きいぞ、ジャムリン」
セイジは溜息をつき、小林の魂データを画面に表示させた。
「小林さん。あなたの望みは本当に『家族の幸せ』だけですか? 何か個人的な願い、たとえば『生まれ変わったら大魔法使いたい』とか『王様になりたい』とかはありませんか?」
小林は困ったように微笑み、首を振った。
「ないよ、審査官さん。俺はただ、あの子が……娘の葵が、俺がいなくなっても笑顔で生きていける世界であってほしい。……それ以外には、何も要らないんだ」
自分自身の幸せなど、一切考慮に入れていない言葉だった。
「ダメです……! 納得いきません!」
ジャムリンが悔しそうにデスクを叩いた、その時だった。
「——お困りのようですね、イマミヤ審査官」
静かな足音とともに、黒いスーツ姿の美しい男が現れた。神界監査局(DAB)上席監査官、レヴァニエル・サリムである。
「レヴァンさん……」
「監査局の端末からも、その小林という魂の記録を照合させていただきました」
レヴァニエルは手にした『監査用概念帳簿』を指先で滑らせ、冷徹な声の中にかすかな重みを込めて告げた。
「現世の神界記録によれば、彼が救ったのは単なる二人の子どもではありません。そのうちの一人は、将来的に現世の医療技術を大きく発展させる運命を持った『特異点の芽』でした。彼の自己犠牲は、一つの世界の未来の損失を最小限に食い止めた……極めて高い功績値に値します」
「えっ……本当ですか!?」
ジャムリンが顔を輝かせる。
だが、レヴァニエルは静かに首を横に振った。
「しかし、現行の第2審査課の業務規程では、本人の明確な『申請』がない限り、システム上の基本ランクを審査官の独断で引き上げることは不可能です。ルールは絶対……規定を無視した変更は、審査官である貴方の処分に繋がります」
「そんな……!」
ジャムリンの表情が再び絶望に陰る。
だが、セイジは焦る様子もなく、赤の油性ペンを指先でくるりと回した。
「……なぁ、レヴァンさん。法規集の『第48条・特殊補償規定』の注釈、第3項を読んだことはありますか?」
レヴァニエルが眉をひそめた。
「第48条……『戦乱および天災における緊急避難的転生規定』ですか? それは国家規模の大災害に適用される条文のはずですが」
「ええ。ですが、その末尾にある注釈文です」
セイジは分厚い法規集のページをめくり、虫眼鏡が必要なほど小さな文字で書かれた一節を指で示した。
『――ただし、個人の献身的行為により一世界の歴史的損失が回避されたと認められる場合、審査官は当該魂に対し、特例条項【献身者補償規定】を適用することができる。この場合、本人の自己申告点に関わらず、最高等級の【安寧と祝福の第二の人生ビザ】を発給するものとする』
ジャムリンが息を呑んだ。
「こ、これ……! 使えるんじゃないですか!?」
「ですがイマミヤ審査官」
レヴァニエルが眼鏡の奥の目を光らせる。
「その『コード・アイリス』を発動するには、現世の担当神の承認と、この第2審査課の『統括審査官』による特別承認印が必要です。事なかれ主義の上層部が、過去数十年も使われていない危険な特例条項に印を押すとは思えませんが」
セイジはニッと不敵な笑みを浮かべた。
「やってみなきゃわかりませんよ。……うちの統括は、胃薬の消費量と引き換えに『筋の通った裁定』を突っぱねるような人じゃない」
◇◇◇
第2審査課・統括審査官室。
山積みにされた書類の陰から、苦虫を噛み潰したような顔が現れた。
マルティン・オルセン統括審査官である。
「……イマミヤ君。君は私を胃潰瘍で倒れさせる気かね?」
マルティンはセイジから提出された『コード・アイリス適用申請書』を指先でつまみ、深々と溜息をついた。
「過去にこの特例を使った審査官がどうなったか知っているか? 上層部から『余計な特例を作るな、事務処理が増える』と散々絞られたんだぞ」
「ですが統括」
セイジはまっすぐ上司を見つめた。
「ルールを悪用してチートを貪るゴミ神や不法転生者を突っぱねるのが僕たちの仕事なら、ルールに則って正当な報いを受けるべき善人に花束を渡すのも、僕たち審査官の仕事のはずです」
後ろで控えていたジャムリンも、深く頭を下げた。
「お願いします、統括! このおじさんに……小林さんに、幸せになってほしいんです!」
マルティンは二人を交互に見つめ、それから窓の外――無数の魂が行き交う巨大なコンコースへと目を向けた。
「……まったく。君という部下を持ったのが、私の人生最大の不運だな」
マルティンはポケットから「次元胃痛薬」を取り出して一粒飲むと、引き出しの奥から重厚な真鍮製の『統括承認印』を取り出した。
ガチャンッ!
「申請を承認する。……ただし! 神界上層部から文句が来たら、君が全部の始末書を書くんだぞ、イマミヤ君」
「はいはい、感謝します、統括」
セイジは苦笑しながら、しっかりと承認印の押された書類を受け取った。
審査カウンターに戻ったセイジは、待たせていた小林の前にその特例書類を広げた。
「小林さん。あなたの『家族の幸せを願う』という強い意志と、生前の尊い行いに対して、当管理局より正当な補償が決定しました」
セイジが提示したのは、金色のルーン文字が眩しく輝く、最高等級のビザだった。
「これは……?」
「『安寧と祝福のビザ』です。チート能力のような物騒な力はありません。ですが、次に生まれ変わる世界で、あなたは裕福で優しい両親のもとに生まれ、温かい家庭と、一生食べるに困らない平穏で幸せな人生が約束されます」
小林は目を丸くした。
「そんな……俺みたいな男に、そんな勿体ない……」
「それだけではありません」
セイジはふっと優しい目を向けた。
「あなたが救った現世の娘さんと奥様には、あなたの残した『献身のカルマ』によって、生涯にわたって神界からの陰ながらの加護が与えられます。病に倒れることもなく、路頭に迷うこともなく、彼女たちはあなたの愛を感じながら、幸せな一生を全うするでしょう」
「っ……あ……」
小林の目から、大粒の涙が溢れ出した。
自分がどれほど傷つこうと泣かなかった男が、残された家族の幸せを保証された瞬間、子供のように顔を覆って泣き崩れた。
「ありがとう……ありがとう、審査官さん……! 俺は……俺は、本当に……!」
「お礼なら、その真面目な生き方に言ってください。あなたは、自分を『大した男じゃない』と言いましたがね」
セイジは重厚なスタンプを手に取り、小林に向かってまっすぐ視線を結んだ。
「誇ってください。あなたは間違いなく、誰かの『英雄』だったんですから」
ガチャンッ!!!
温かな黄金色の光が、小林の魂を包み込んだ。
溢れる涙を拭い、何度も、何度も頭を下げながら、小林勝の魂は祝福の光の中へと旅立っていった。
「……先輩、最高の仕事でしたね」
涙を拭いたジャムリンが、晴れやかな笑顔でセイジを見た。
「ふぅ……疲れた。これで始末書を書かされたら、ジャムリン、お前に半分手伝わせるからな」
「ええっ!? いやですー!」
文句を言い合う二人を横目に、レヴァニエルが静かに帳簿を閉じ、淡い笑みを浮かべた。
「素晴らしい裁定でした、イマミヤ審査官。法とは、悪を挫くだけでなく、善を護るためにこそある……それを思い出させていただきました」
「柄にもないキザなセリフですね、レヴァンさん」
セイジは冷めたコーヒーを飲み干し、深く伸びをした。
「さあ、仕事に戻るぞ。ルールを守る奴には花束を、破る奴にはスタンプを。それが俺たちの仕事だ」
境界ターミナル Central-0。
今日も無数の魂が交差するハブステーションに、ささやかな祝福の光が優しく残っていた。




