第八話 休みの日まで、生徒に会うのかよ
五月の大型連休。俺には、これといった予定がなかった。
ラーメン屋を巡って、中古レコード店を覗く。普段と大して変わらない休日を過ごすつもりだった。
教師という仕事は、休みの日まで教室のことを引きずるものだと、この学校に来て初めて実感していた。前任校の男子校では、休みの日は完全に頭を切り替えられていたのに、今は妙に、教室の生徒たちの顔がちらつく。
☆
連休二日目の昼過ぎ、目当てのラーメン屋に向かう途中、俺はふと見覚えのある後ろ姿に気づいた。
制服ではない、私服姿だったが、その姿勢の良さと、髪をまとめる仕草には見覚えがあった。
「大宮?」
声をかけると、振り返ったのは、間違いなく千紘だった。
「あ、先生」
千紘は少し驚いた様子で、それでもすぐに落ち着いた表情に戻った。隣には、千紘より少し背の低い女性が立っている。年齢からして、母親らしかった。
「連休中まで、生徒に会うとは思わなかったな」
「私もです。まさかこんなところで」
千紘の母親が、丁寧に会釈してきた。
「いつも娘がお世話になっております。担任の先生ですか」
「黒部です。よろしくお願いします」
千紘は、少し気まずそうな顔をしながら、俺と母親の間に立っていた。
「お母さん、先生とはまた学校で」
「そんなに急がなくてもいいでしょう。せっかくだから、少しお話しさせてもらいたいわ」
千紘の母親は、娘とは違うタイプの朗らかさを持った人だった。学校での千紘の様子を、少し心配げに尋ねてくる。
「委員長をしているとは聞いているんですけど、ちゃんと羽を伸ばせているのかしら。この子、昔から責任感が強すぎて、抱え込みやすいところがあって」
「お母さん」
千紘が慌てて口を挟んだ。母親は気にせず続ける。
「小さい頃から、周りの子の面倒ばかり見ていて。自分のことは後回しにする癖があるんです」
「お母さん、先生の前でそういう話、しないで」
千紘の顔が、みるみる赤くなっていった。俺はその様子を、なんとなく微笑ましく眺めていた。教室で見せる完璧な委員長の姿とは違う、ただの高二の娘としての千紘が、そこにいた。
「お前、家でもそんな感じなのか」
「先生まで、からかわないでください」
千紘は珍しく、困ったような、拗ねたような表情を見せていた。母親は楽しそうに笑いながら、買い物袋を持ち直した。
「先生、この子のこと、これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
千紘の母親が先に歩き出すと、千紘は少し慌てた様子で俺に頭を下げた。
「先生、今日のこと、教室では」
「言わねえよ、べつに。連休中のことだしな」
「ありがとうございます」
千紘は安堵した表情を浮かべると、母親の後を追って歩いていった。
☆
連休三日目、俺は行きつけの中古レコード店に足を運んだ。狭い店内には、古い盤が所狭しと並べられていて、独特の埃っぽい匂いが漂っている。
棚の奥、フォークソングのコーナーで、俺は思いもよらない人物と遭遇した。
渋谷や原宿なら、姿を見かけても不思議じゃないあの生徒だ。
「星川?」
声をかけると、しゃがみ込んでレコードを物色していたミウが、驚いた様子で顔を上げた。
「せ、先生!?」
ミウの手には、俺がよく知る古いバンドのレコードが握られていた。
「お前、こんなとこで何やってんだ」
「べつに、普通にレコード見てただけだけど」
ミウは少しばつが悪そうな表情を浮かべていた。俺は思わず、彼女の手元のレコードを覗き込んでしまった。
「これ、七十年代のフォークだろ。お前、こういうの聴くのか」
「うるさいな、悪い?」
ミウは気まずそうに、レコードを棚に戻そうとした。俺は思わず引き止める。
「いや。俺も好きだぞ、それ」
ミウはしばらく黙っていたが、やがて観念したように、手にしていたレコードを、もう一度取り出した。
「あたしの父親が、昔、こういう音楽好きでさ。子どもの頃、家でよくかかってたんだよね」
「そうか」
「なんか、聴くと落ち着くんだよね。派手な髪とネイルしてるくせに、って思われそうだから、あんまり言わないけど」
ミウは少し照れくさそうに、そう付け加えた。俺はその横顔を、しばらく眺めていた。教室で見せる強気な態度とは違う、少し無防備な表情がそこにあった。
「べつに、意外でもなんでもねえよ。人間、いろんな顔あるだろ」
「先生にしては、まともなこと言うじゃん」
「いつもまともなこと言ってるだろ」
「いや、大体トンチンカンだけど」
ミウは、いつもの調子を取り戻したように、少し笑いながら言い返してきた。俺は特に反論もせず、そのまま店の奥へと足を進めた。
「先生、今日のこと、玲華には言わないでよ」
「なんで東雲限定なんだよ」
「いいから」
「わかったよ」
「ならいい」
ミウは安心したように頷くと、レジへと向かっていった。俺はしばらく、彼女が持っていたレコードのジャケットを思い出しながら、店内を歩き続けた。
☆
連休最終日、俺は近所の公園を、なんとなく散歩することにした。連休の疲れを取るためというよりは、教室のことをあれこれ考えずに済む時間が欲しかった。
公園のベンチに、見覚えのある人物が一人、座っているのが見えた。眼鏡をかけ、文庫本を読んでいる、その姿勢の良さと集中力には、見覚えがあった。
「高鳥?」
声をかけると、すみれがはっと顔を上げた。
「先生……」
「連休中まで、勉強熱心だな」
「勉強ではなく、趣味の読書です」
すみれは、いつもの落ち着いた口調でそう答えた。俺は彼女の隣に腰を下ろし、手元の文庫本のタイトルを覗き込んだ。純文学系の小説らしい、地味な装丁の一冊だった。
「そういうの、普段から読んでんのか」
「はい。文芸部所属ですので」
「百合の考察ノート以外にも、ちゃんと文学読んでるんだな」
「当然です。あちらは趣味、こちらは教養です」
すみれのきっぱりとした線引きに、俺は思わず苦笑してしまった。
「今日は、一人か」
「はい。休日は、一人で過ごすことが多いです」
「へえ」
「……それだけですか」
「それ以外に何があるんだよ」
「いえ。先生なら何か言うかと思ったので」
「休みの日くらい好きにしろよ」
その言葉に、すみれは少し驚いたような顔をした。
「先生、たまに、まともなこと言いますね」
「星川にも同じこと言われたよ、この前」
「星川さんにも会ったんですか」
「レコード屋でな」
「先生、連休中に生徒三人と会うって、引き強すぎません?」
「俺もそう思うよ」
すみれは、興味深そうに耳を傾けていたが、それ以上は深く聞いてこなかった。俺もあえて詳しくは語らず、そのまましばらく、公園のベンチで並んで座っていた。




