第七話 この先生、意外と話を聞く
四月も終わりに近づいたある日。
朝のホームルームで、俺は生徒たちに声をかけた。
「先週配った面談用のアンケート、今日回収するから出せ」
「先生、忘れてませんでした?」
すみれが眼鏡越しにこちらを見た。
「忘れてねえよ」
「今、一瞬思い出した顔してましたけど」
「気のせいだ」
先週、校外学習よりも前に配っておいた用紙だった。
四月の後半から大型連休を挟んで五月上旬にかけて、この学校では個人面談が行われる。そのための事前アンケートで、最近困っていること、学校生活のこと、進路の希望などを書かせるものらしい。
三宅先生からは、「生徒の本音が出やすい貴重な機会なんですから、雑に扱わないでくださいよ」と念を押されていた。
その日の放課後。回収したアンケートに目を通していた俺は、思っていた以上に困惑することになった。
「――既読スルーされて三日経つ」
松原杏の用紙にはそう書かれていた。それだけでは何のことかさっぱりわからない。
「――グッズ交換で相手が約束を破った。許せない」
これは、ひなたの用紙だった。グッズ交換というものが、そもそもどういう仕組みなのかもわからない。
「――友達に『解釈違い』と言われて地味に傷ついている」
すみれの用紙には、そう記されていた。解釈違いという言葉の意味も、まったく見当がつかなかった。
俺はしばらく机に頬杖をついて、それぞれの用紙を眺めていた。どれも深刻そうな筆致で書かれているのに、内容の九割が理解不能だった。
日本語で書かれているはずなのに、ほとんど読解できない。
現代文教師として、若干の敗北感があった。
☆
放課後、たまたま職員室に残っていた三宅先生に、用紙を見せながら相談してみた。
「なあ、これ全部意味わかるか」
「ああ、ありますね、こういうの」
三宅先生は用紙にさっと目を通して、あっさりとうなずいた。
「既読スルーは、メッセージを読んだのに返信が来ないってことです。三日って結構長いですね、これは心配になる子の気持ちわかります」
「グッズ交換は」
「推し活の子たちがよくやるやつです。同じ推しのグッズを、被ってるやつと交換したりするんですけど、約束を破られるとまあ、揉めます」
「解釈違いは」
「これは、ちょっと説明しにくいんですけど……キャラクターの捉え方とか、関係性の見方が、自分と友達で違ってて、それで気まずくなるみたいな」
「なんだよそれ」
「先生には無理に理解しなくていいと思います」
三宅先生の言葉に、俺は少し安心したような、それでもどこか納得できないような気持ちになった。
☆
翌週から始まった面談の場では、こうした「理解不能な相談」が、次々と持ち込まれることになった。
最初に来たのは松原杏だった。狭い面談室の椅子に座るなり、彼女は少し疲れたような顔で切り出した。
「先生、あのアンケートの件なんですけど」
「既読スルーの奴か」
「そうです。バイト先の先輩に、シフトのことで相談したメッセージ送ったんですけど、もう三日既読ついたまま返事がないんです」
「催促すればいいんじゃねえの」
「それができたら苦労しないんですよ」
杏は少し呆れたようにため息をついた。俺はどう答えたものか困りつつ、とりあえず率直に聞いてみることにした。
「催促できない理由はなんだ」
「先輩、機嫌損ねやすい人で。下手に催促すると、シフト減らされたりするんです」
「そりゃきついな」
「でしょう」
「じゃあどうすんだ、お前」
「わかんないから、先生に言ってるんです」
俺は正直、解決策と呼べるようなものを持ち合わせていなかった。ただ、杏の話をもう少し詳しく聞いてみることにした。
「その先輩、普段は普通に返信くれる人なのか」
「普通は割とすぐ返ってきます」
「じゃあ今回だけ様子違うってことは、何か理由あるのかもな」
「まあ、そうかもしれないですけど」
「メッセージの内容、俺に見せられるか」
杏はスマホを取り出して、画面を見せてくれた。シフトの相談にしては、確かに少し急かすような書き方になっている。
「これ、催促っぽく見えなくもないな」
「そんなつもりじゃなかったんですけど」
「向こうがどう受け取ったかは、こっちにはわかんねえだろ。でも、もう一回送るなら、催促じゃなくて確認って形にすればいいんじゃねえの」
杏はしばらく画面を見つめてから、小さく頷いた。
「そう言われると、そうかもしれません」
俺は特に画期的な提案をしたつもりはなかったが、杏の表情は少しだけ晴れていた。
次に来たのは神楽坂ひなただった。グッズ交換の件について、彼女は身振り手振りを交えながら、俺には九割理解できない専門用語を並べ立てた。
「先生、聞いてください。あの子と、限定の缶バッジ交換する約束してたのに、当日になって『やっぱり手放したくなくなった』って言われて」
「それは、まあ、腹立つよな」
「でしょう! 私、そのために自分の持ってる別のグッズまで用意してたのに」
俺は交換の仕組みそのものはよくわからなかったが、約束を破られて悲しい、という気持ちの部分だけはじゅうぶんに理解できた。
「その子とは、それまで仲良かったのか」
「同じ担当推しのファン仲間で、それなりに」
「じゃあ、直接聞いてみたらどうだ。なんで気変わったのか」
「聞くの、ちょっと怖いです」
「怖いのはわかるけど、聞かなきゃずっとモヤモヤしたままだろ」
ひなたはしばらく黙っていたが、最終的には小さく頷いた。
「聞いてみます」
俺は結局、専門的な話の中身にはほとんど踏み込めなかったが、ひなたが自分の中で何をすればいいか決めるのを、そばで見守ることしかできなかった。
すみれの相談は、さらに輪をかけて理解が難しかった。
「解釈違いって言われて、傷ついてるんです」
「その、解釈ってのは何を解釈してるんだ」
「玲華さんとミウさんの関係性の解釈です」
「ああ、れいみうってやつか」
「先生、その単語覚えたんですね」
すみれは意外そうな顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「友達に、あの二人の関係性は、もっと切ない距離感のはずだって言われて。私は、あの二人はもっと自然体の近さだと思ってるんですけど、そこで意見がぶつかって」
俺には正直、二人の距離感の解釈にどんな違いがあるのか、まったく見当がつかなかった。それでも、すみれの表情の真剣さだけは伝わってくる。
「そのことで、その友達と気まずくなったのか」
「はい。私にとっては大事な話なのに、雑に扱われた気がして」
「大事な話を雑に扱われるのは、そりゃ嫌だよな」
俺はそこだけは、はっきりと共感できた。専門的な内容はわからなくても、大事にしているものを軽く扱われた時の悔しさは、誰にでも共通するものだと思えたからだ。
「その気持ち、ちゃんと友達に伝えたか」
「いえ、まだです」
「伝えろよ。れいみうがどうとかは俺にはわかんねえけど、お前が傷ついたって事実だけは、ちゃんと言った方がいい」
すみれは意外そうな顔をした後、小さく笑った。
「先生、中身は全然わかってないのに、なんか的確なこと言いますね」
「うるせえ」
主な面談が一段落する頃には、教室の空気が少しずつ変わっていることに気づいた。休み時間になると、生徒たちが以前よりも気軽に俺に話しかけてくるようになっていたのだ。
放課後の教室、窓の外には初夏の柔らかい風が吹き込んでいた。片付けをしていた千紘が、ふと思い出したように言った。
「先生、みんなの間で評判変わってきてますよ」
「どんな風に」
「最初は『空気読めない変な先生』だったんですけど、最近は『中身は理解してないけど、話はちゃんと聞いてくれる先生』みたいな」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてます、たぶん」
千紘は珍しく、少し楽しそうな顔をしていた。
俺は自分の机に戻って、面談で使ったアンケート用紙をもう一度眺めた。既読スルー、グッズ交換、解釈違い。相変わらず内容の大半は理解できない。だが、それぞれの紙の向こうに、それぞれの生徒が本気で悩んでいる何かがあるということだけは、この一週間ではっきりとわかった気がした。
窓の外で、葉桜になった木が風に揺れていた。
明日から大型連休で少し一息つける。この一ヶ月だけで、俺はすでに数えきれないほどの「知らないこと」に出会っていた。それでも、少しずつ、このクラスの生徒たちのことが、わかり始めている気がしていた。




