第六話 推しは人生らしい
校外学習の翌日。ホームルームが終わった直後、教室の空気が急に色めき立った。
震源地は、ひなたの席だった。
「うそでしょ、うそでしょ、うそでしょ!」
スマホの画面を両手で握りしめたまま、ひなたは椅子から立ち上がり、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねている。缶バッジのついた鞄が、机の脚にがちゃがちゃとぶつかって音を立てていた。
「ひなた、どうしたの、そんな騒いで」
委員長の千紘が心配そうに声をかけると、ひなたは涙目のまま、震える手でスマホの画面を突き出した。
「当たった……当たったんです……! ルナ様の、単独ライブのチケット……!」
教室のあちこちから歓声が上がった。
「え、月風ルナのライブ!?」
「すごいじゃん、当選確率めっちゃ低いって噂のやつ!」
「ひなたちゃん、おめでとう!」
俺はその盛り上がりを教壇の脇で眺めながら、内心では単純に喜んでいた。生徒が何かに本気で嬉しがっている姿は、悪いものではない。
しかしその喜びの空気は、長くは続かなかった。
「あ……」
ひなたの表情が、急に凍りついた。スマホのカレンダーアプリを開いたまま、画面を見つめている。
「どうした」
俺が声をかけると、ひなたは今にも泣きそうな顔でこちらを見た。
「先生……ライブの日って、文化祭実行委員の準備日と、同じ日なんです……」
教室の空気が、一気にしんと静まり返った。
二年桜組は今年、文化祭の飲食ブースの企画を任されていて、ひなたはその実行委員のひとりに選ばれていた。六月の本番に向け、四月と五月は実行委員を中心に少しずつ準備を進めることになっていて、準備日は月に二度、土曜日に設定されている。よりによって、そのうちの一日が丸ごとライブの日と重なっているらしかった。
放課後、俺は職員室でこの件を報告しようとしたが、その前に生活指導担当の教師たちの間で話がすでに回っていたらしい。
「学校行事の準備を優先させるべきです」
声を上げたのは、以前ミウの件でも意見してきた篠田先生だった。
「特に文化祭は、生徒会主導の重要な行事です。個人的な予定で欠席を認めれば、示しがつきません」
「本人の楽しみを完全に否定する必要はないと思いますが」
三宅先生が控えめに口を挟んだが、篠田先生は取り合わなかった。
「学校行事より優先すべき個人的な予定など、あるべきではありません」
その言葉を聞きながら、俺はふと、この理屈のどこかに引っかかりを覚えていた。
翌日、俺はひなたを呼び出した。放課後の教室、西日が窓から差し込んで、机の並びに長い影を落としている。ひなたは俯いたまま、鞄の持ち手を強く握りしめていた。
「先生、私、諦めます」
「なんでだよ」
「だって、みんなに迷惑かけたくないですし、学校の行事なので……」
声がだんだん小さくなっていく。俺はしばらくその様子を見てから、あえて軽い調子で言った。
「行けば?」
ひなたが、弾かれたように顔を上げた。
「え?」
「行けばいいだろ、ライブ」
「で、でも先生、篠田先生が」
「篠田がなんて言おうと、俺はお前の担任だ。ただし」
俺はそこで一度言葉を切った。ひなたが息を呑む音が聞こえる。
「抜けるなら、自分が抜けた穴をどうするか、お前が全員に説明しろ」
ひなたは目を丸くしたまま、しばらく固まっていた。
「先生、それって……」
「休むなとも、行くなとも言わない。ただ、お前が抜けたら、誰かがその分の仕事を引き受けることになる。だったら、それをどう埋めるか考えるのはお前の仕事だ。誰かに押し付けるんじゃなくて、自分でどうにかする方法を探せ」
ひなたは、しばらく黙り込んでいた。窓の外では、部活動に向かう生徒たちの声が遠くから聞こえている。西日の光が、彼女のうつむいた顔にオレンジ色の陰影を落としていた。
「私……できるでしょうか」
「できるかどうかは知らねえよ。やるかやらないかだけだ」
ひなたは唇をきゅっと結んで、小さく頷いた。
翌日から、ひなたの行動は目に見えて変わった。休み時間になるたびに、文化祭実行委員のメンバーのところへ足を運び、何やら真剣な顔で話し込んでいる。
「杏ちゃん、今度の文化祭準備日、私の担当と代わってもらえないかな」
「べつにいいけど、代わりに何かしてくれんの」
「次の準備日、杏ちゃんの分までやる。あと、これあげる」
ひなたは鞄から推しの缶バッジを一つ取り出して、杏に差し出した。
「その熱意だけは認める」
杏は少し驚いた顔をしたが、結局は受け取っていた。
別の場面では、ミウのところにも交渉に行っていた。
「ミウちゃん、当日の看板作り、私の分もお願いできない?」
「いいけど、なんか対価は」
「今度、ミウちゃんの好きなお菓子、奢る」
「それはべつにいらないけど、まあ手伝うよ。頑張ってんじゃん、ひなた」
一人ひとりに頭を下げて回り、自分にできることを提示して、少しずつ協力を取り付けていく。俺はその様子を教室の隅から眺めながら、正直なところ少し驚いていた。普段は缶バッジをじゃらじゃらさせながら推しの話ばかりしている印象の強い生徒だったが、こういう場面での粘り強さは、想像以上のものがあった。
準備日の数日前。ホームルームが終わると、ひなたが一枚の紙を手に教壇の前へ出た。
「みんな、ちょっとだけいいですか」
いつもより少し緊張した声に、教室の視線が集まる。
「今度の準備日、私、ライブで休みます。その代わり、杏ちゃんには次の準備日を代わるし、ミウちゃんがやってくれる看板の分は、前日までに下書きと材料の準備を全部終わらせます。他にも、私が先にできる作業は全部やっておきます」
ひなたは手元の紙へ目を落とした。
「迷惑かけるのはわかってます。でも、どうしても行きたいです。だから、休む分はちゃんと埋めます」
教室が一瞬静かになった。
「そこまで考えてるなら、私はいいと思う」
最初に答えたのは千紘だった。
「私も」
「ちゃんと約束守ってくれるなら問題ないよ」
次々に声が上がる。
ひなたは何度も頭を下げた。
「みんな、本当にありがとう。絶対、ちゃんと埋め合わせするから」
その様子を見ながら、俺は少しだけ感心していた。
好きなもののためなら、こいつはここまで動けるらしい。
☆
週明け、教室に戻ってきたひなたは、いつも以上に元気だった。
「先生! ライブ、最高でした……!」
興奮気味に話す内容は半分も理解できなかったが、楽しめたことだけはよくわかった。
「先生のおかげで、私、ちゃんと行けました」
「俺は何もしてねえよ。行きたいって決めて、周りに頭下げて、穴埋めしたのも全部お前だろ」
「でも、先生が『行けば』って言ってくれなかったら、最初から諦めてました」
ひなたは、少し照れくさそうに笑った。
放課後。誰もいなくなった教室で、俺は窓の外を眺めていた。
学校の予定があるなら我慢しろ。
前の俺なら、たぶんそれで終わっていた。
けれど、我慢する以外にもやり方はあるらしい。
やりたいことがあるなら、そのためにどう責任を取るか考える。
少なくとも、今回のひなたには、その方が合っていた。
男子校時代には、こんな指導の仕方をしたことは一度もなかった。
だが不思議と、この方法がこのクラスには合っている気がした。




