第五話 遠足くらい普通にできないのか
四月の半ばを過ぎたある日。校外学習を数日後に控えたホームルームで、俺が改めて当日の予定を確認すると、教室のあちこちから不満げな声が上がった。
「やっぱ鎌倉かー」
「行き先変わってないの?」
「ディ〇ニーがよかったー!」
ひなたが即座に便乗する。
「他校、ディ〇ニー行ってるって聞いたんだけど」
「せめて横浜じゃない?」
松原杏が現実的な代案を出すと、周囲からも同調するような声が上がった。肩につくくらいの黒髪を後ろで一つにまとめた、飾り気のない雰囲気の生徒だ。
「鎌倉、映える場所は多いよ」
いつも髪型もメイクも隙なく整えている天城リリアだけが冷静に指摘したが、それでも教室全体の空気は明らかに不満に満ちていた。俺は黒板の前で腕を組みながら、この反応に少し戸惑っていた。
「お前ら、遠足に何求めてんだ」
「夢」
ひなたが即答する。
「映え」
リリアが続いた。
「食べ歩き」
ミウが挙手するように言う。
「推しのアクスタ撮影」
ひなたが再び付け加えた。
「先生、遠足ってそういうもんだよ」
千紘があきれたような、それでいて特に反論もしない様子でまとめた。
「そういうもんなのか、遠足って」
「少なくとも、うちのクラスではそうです」
その断言に、俺は返す言葉を失った。
そんな中、窓際の席で玲華だけが、姿勢を正して穏やかに口を開いた。
「鎌倉は歴史ある素晴らしい土地ですわ」
その一言だけは、いかにも品のある優等生らしい模範解答だった。だが、隣に座るミウがすぐさま口を挟んだ。
「れーちゃん昨日、『鎌倉 食べ歩き 楽しみ』って検索してたじゃん」
「ミウ!」
玲華の顔が、瞬時に赤く染まった。
「なんで見てるんですの、そういうところ」
「べつに見てないよ、スマホ画面がたまたま目に入っただけ」
「たまたまで、検索履歴まで読み取れませんわ!」
教室に、どっと笑いが起きた。俺はそのやり取りを眺めながら、この二人の距離の近さが、こういう場面でも遺憾なく発揮されることに、今さらながら感心していた。
「先生、遠足ではなく正式には校外学習です」
生徒の一人から突っ込みがくる。
「意味通じてんだからいいだろ。お前らだって普段、校外学習なんて言わねえだろ」
俺がそう言うと、教室のあちこちから同意する声が上がった。
結局、行き先変更の余地はないまま、校外学習の日を迎えることになった。
☆
当日の朝、鎌倉駅前に集合した二年桜組の生徒たちは、思い思いの表情でその日を迎えていた。天気は快晴で、桜はとっくに散り終えていたが、代わりに若葉の緑が眩しいほどに濃くなっている。
俺は点呼を取りながら、改めてクラス全体を見渡した。教室の中では気づかなかったが、外に出るとまた違った顔ぶれが見えてくる。
班行動の説明を終えた後、生徒たちはそれぞれの班に分かれて散っていった。俺は班長である千紘と一緒に、全体を見て回ることになっていた。
「先生、正直、班をまとめるの、結構大変です」
千紘が早くも疲れたような顔をしていた。
「まだ始まったばっかだろ」
「もう嫌な予感がするんです」
その予感は、案の定的中することになる。
鶴岡八幡宮の参道に差し掛かった頃、玲華とミウは、すでに食べ歩きに全力を注いでいた。
「ミウ、あちらの団子屋さん、行列ができておりますわ」
「並ぼう並ぼう。れーちゃん、あんこ好きだよね」
「好きですが、遠足の目的は、あくまで歴史文化に触れることであって」
「はいはい、口ではそう言いながら、もう並ぶ気満々の顔してるじゃん」
玲華はきまり悪そうに視線を逸らしたが、それでも足はすでに行列の方へと向かっていた。
団子を頬張りながら参道を歩く二人は、周囲から見れば完全にデート中のカップルのようだった。実際、少し離れた場所からその様子を見ていたすみれが、目を輝かせながらノートに何かを書き込んでいる。
「古都デート……」
「高鳥、それ違うからな」
俺が思わず釘を刺すと、すみれは澄まし顔で言い返した。
「先生、これは記録です。文化財級の尊さを、後世に残す使命があります」
「遠足だからな?」
「私にとっては、これも立派な学習成果です」
すみれの理屈は、いつも通り俺の理解を超えていた。
少し離れた場所では、ひなたが大仏の前で、鞄から取り出したアクリルスタンドを両手に構えていた。
「ルナ様、鎌倉の大仏様と一緒に撮らせてください」
小さく祈るように呟きながら、丁寧にアングルを調整している。周りの観光客が、少し不思議そうな視線を向けていたが、ひなたはまったく気にする様子がなかった。
「これで、ルナ様も鎌倉旅行できました」
満足げに写真を確認するひなたの姿に、俺は苦笑せざるを得なかった。
リリアは、スマホを片手に絶えず撮影スポットを探して歩いていた。
「ここ、光の当たり方がいい感じ。ちょっと撮らせて」
境内の一角で、自撮りとも風景撮影ともつかない角度で、何枚も写真を撮っている。ふとその画面の端に、通りすがりの他の生徒たちが映り込んでいるのが見えた。
「天城、それ、映り込んでるやつ大丈夫か」
「あ、これですか。あとで確認して、必要ならぼかし入れます」
リリアは軽い調子でそう答えた。
佐々岡乃愛は、人混みの中で目立たないように歩を進めていた。にぎやかな他の生徒たちとは対照的に、境内の隅々に置かれた石碑や苔むした灯籠を、じっと観察している。肩まで伸びた柔らかな栗色の髪に、どこか眠たげな目をした、ふんわりした雰囲気の生徒だ。
「佐々岡さん、人多いの、苦手なんですか?」
「うん。ちょっとだけ」
「じゃ、じゃあ……あっち、少し静かそうですけど……一緒に行きます?」
すみれが境内の奥を指差し、乃愛を誘った。
「いいの?」
「もちろんです」
返事だけは妙に早かった。
二人は人の少ない小道へ歩いていった。すみれはどことなくぎこちない歩き方をしていたが、乃愛は特に気づいていないらしい。
その一方で、千紘は班のメンバーの位置を確認しながら、休む間もなく動き回っていた。
「千紘、少し休みなよ」
「休んでる暇ないよ、みんなバラバラになるの、なんとか防がないと」
千紘の眉間には、朝からずっと皺が寄ったままだった。
杏は参道沿いの店に並んだ商品の値札を、次々とチェックしながら歩いていた。
「いちご飴、八百円!?」
思わず声が漏れる。
「観光地だからね」
千紘が横で軽く笑いながら答えると、杏は納得のいかない顔で首を振った。
「観光地でもいちごは同じいちごでしょ」
「それ言ったら、観光地商売、成り立たないと思うけど」
「成り立たなくていいと思う、この値段は」
杏の金銭感覚は、こういう場面でも変わらず健在だった。
「お前、遠足で原価計算すんなよ」
「先生、八百円ですよ」
「……高えな」
「でしょ?」
☆
昼を過ぎた頃、俺は少し離れた場所から、班の様子を見守っていた。それぞれの生徒が、それぞれの楽しみ方でこの校外学習を過ごしている。教室の中だけでは見えなかった一面が、こうして外に出ることで、次々と表に浮かび上がってくる。
集合時間が近づき、俺たちも集合場所の鳥居前へ戻ろうとしていたところで、向こうから見覚えのある顔が歩いてきた。
「黒部先生、お疲れさまです」
白崎先生だった。後ろには松組の生徒たちが、何人かずつまとまりながらも、特に騒ぐことなくついてきている。
「白崎。そっちは?」
「今のところ、全員予定通りです。特に大きな問題もありません」
「……交換しねえ?」
「何をですか」
「クラス」
「しませんよ」
「即答かよ」
白崎先生は困ったように笑った。
「僕、松組でホッとしたって言ったじゃないですか」
「まだ言うか、それ」
「今日、改めて実感しました」
後ろを振り返ると、玲華とミウはまだ何か食べている。ひなたはさっきまで大仏の前でアクスタを撮っていた。リリアは撮影スポットを探し続け、杏は観光地価格に文句を言い、千紘は朝からずっと人数確認に追われている。
反論できなかった。
「黒部先生も、大変ですね」
「他人事みたいに言うな」
「他人のクラスなので」
「お前、やっぱ見た目より結構ひでえな」
白崎先生は涼しい顔で笑い、そのまま松組の生徒たちを連れて先へ進んでいった。
俺はその後ろ姿を眺めながら、少しだけ松組が羨ましくなった。
――その数分後。
「ひなたがいない」
千紘の声で、その羨望は一瞬で吹き飛んだ。
「さっきまで一緒にいたのに」
「たぶん、また撮影に夢中になってるんじゃない」
杏が呆れたように呟いた。
案の定、少し離れた竹林の脇で、ひなたはまだアクリルスタンドを片手に、熱心に撮影を続けていた。
「もう少し、あと少しだけ」
声をかけに来た千紘が、腕組みをしながら、いつもより少し強い口調で言った。
「ひなた、集合時間、もう過ぎてる」
「え、うそ、ごめん、あともう少しだけ」
「もう少しって、さっきも言ってたよね」
千紘の声に、明らかな苛立ちが混じっていた。
「時間守ってよ。みんな待ってるんだから」
「わかってるけど……」
ひなたは、アクリルスタンドを見つめながら、口を尖らせた。
「ちょっとくらい、いいじゃん」
「良くないよ。班長として、私、みんなの分まで責任持ってるんだから」
二人の間に、ぴりっとした空気が流れた。
俺は少し離れた場所から、その様子を見ていたが、あえてすぐには割って入らず、しばらく成り行きを見守ることにした。
「神楽坂」
しばらくして、俺はようやく声をかけた。
「推しとの写真は逃げねえけど、集合時間は逃げるぞ」
その言葉に、ひなたは少し驚いたように顔を上げた。
「撮りたい場所、あと何か所だ?」
「二か所です」
「じゃあ、班の奴らに聞け。付き合ってもらえるなら行け」
ひなたは戸惑った様子で、千紘や、集まってきた他の班の生徒たちを見渡した。
「みんな、いいかな。あと二か所だけ」
千紘はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をつきながら、腕組みを解いた。
「わかった。でも、今度からはちゃんと時間報告してよね」
「うん、ごめん」
「二か所くらいなら、あたしも付き合うよ」
ミウが軽い調子で言うと、他の生徒たちも次々と頷いた。
「じゃあ、私も」
「私も付き合う」
結局、班全体でひなたの残り二か所の撮影に付き合うことになり、その様子を見ていた千紘の表情も、少しずつ和らいでいった。
「みんな、ありがとう」
ひなたは嬉しそうに礼を言いながら、残りの撮影スポットへと足早に向かっていった。
☆
夕方、鎌倉駅前に全員が集合した。長い一日を終えた生徒たちの顔には、それぞれ疲労と満足が入り混じっていた。
「先生、今日どうだった?」
ミウが、帰りの電車を待ちながら、ふと聞いてきた。
「疲れた」
俺は正直にそう答えた。
「楽しかった?」
「……まあな」
「じゃ、来年ディ〇ニーね」
ひなたが、当然のようにそう言い切った。
「俺に決定権はねえ!」
「先生が決定権持ってないの、私たちだって知ってますけど、一応言ってみただけです」
「なんだそりゃ」
夕暮れの光が、鎌倉駅前のロータリーを橙色に染め始めていた。生徒たちの笑い声が、駅前の喧騒に混じって響いている。
☆
帰りの電車の中、疲れて眠り込んでしまったひなたの肩に、隣に座ったミウが、当たり前のようにブランケット代わりの上着をかけている。玲華は、その様子を微笑ましそうに眺めながら、自分もまた小さくあくびを噛み殺していた。




