第九話 インフルエンサーは休めない
ゴールデンウィーク明けの月曜日。教室に入ってすぐ、俺は妙な違和感に気づいた。
いつもは背筋を伸ばして、髪型もメイクも完璧に整えているリリアが、机に突っ伏すようにして座っている。顔色もどこか優れないように見えた。
「天城、大丈夫か」
声をかけると、リリアはのろのろと顔を上げた。目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。
「大丈夫です、先生。ちょっと寝不足なだけで」
「連休、遊びすぎたか」
「遊んでは、ないです」
リリアはそう言うと、また机に突っ伏してしまった。周りの生徒たちも、特にそれを気にする様子はない。休み明けの気だるさだと思っているようだった。
しかし一時間目の授業中、俺はリリアが完全に舟をこいでいるのを見つけた。教壇から見て、明らかに意識が飛んでいる。
「天城」
声をかけると、リリアははっと目を覚まし、慌てて背筋を伸ばした。
「す、すみません」
「授業中に寝るなとは言わねえけど、なんでこんな眠いんだ」
「その……」
リリアは言葉を濁した。周囲の生徒たちが、なんとなく気まずそうな顔を見合わせている。
放課後、俺はリリアを呼び止めて事情を聞くことにした。教室に残ったのは俺とリリアの二人だけで、窓の外にはゴールデンウィーク明けらしい、少し眩しすぎる午後の光が差し込んでいた。
「連休中、何してたんだ」
「普通に、過ごしてました」
「普通にってどういう普通だ」
リリアは少し迷った様子だったが、やがてスマホを取り出して、投稿履歴の画面を見せてきた。
五月の大型連休。そこには毎日、複数の投稿が並んでいた。メイク動画、コスメレビュー、ファッションのコーディネート紹介。日付を見ると、投稿時間は夜中の一時、二時のものも珍しくない。
「これ、全部連休中に撮ったのか」
「はい。案件の締め切りが重なってて、休んでる暇なかったです」
「一日何時間くらい作業してたんだ」
「撮影と編集で、平均六時間くらいですかね。多い日は十時間くらいやりました」
「それ、休みじゃなくて仕事だろ」
リリアは少し困ったように笑った。
「私にとっては、これも楽しみの一部なので」
「楽しみでも、十時間やったら疲れるだろ、普通に」
「まあ、そうかもしれないですけど」
俺はしばらく黙って、リリアの投稿履歴を眺めていた。どの動画も、笑顔で、明るい口調で、疲れなど微塵も感じさせない出来栄えになっている。だが今、目の前にいるリリアの顔には、明らかな疲労の色が滲んでいた。
「お前、ずっと仕事してて疲れねえの?」
深く考えたわけではなく、単純に思ったことをそのまま口にしただけだった。しかしその一言に、リリアは一瞬、動きを止めた。
「……疲れる、とは考えたこと、なかったです」
「は?」
「だって、これは仕事っていうより、好きでやってることなので。休むとか休まないとか、そういう区別、あんまりしてこなかったです」
その言葉に、俺は少し引っかかりを覚えた。
「好きでやってても、休みの日まで十時間やってたら、それ休みじゃねえだろ」
リリアは何かを言おうとして、口を開きかけたまま、しばらく黙り込んでいた。窓の外を見つめる横顔に、午後の光が斜めに差し込んでいる。いつも完璧に整えられているはずの表情に、初めて見るような戸惑いが浮かんでいた。
「私、今まで、休むって発想が、なかったのかもしれません」
小さな声だった。
「フォロワーの人たちは、毎日私の投稿を待ってくれてます。少しでも間隔が空くと、心配のコメントが来たり、他のインフルエンサーに興味が移ったりします。だから、休むって選択肢が、私の中には最初からなかったんです」
「それ、しんどくねえのか」
「しんどいって、思ったこと自体、なかったです。さっき先生に聞かれるまで」
リリアはそう言って、少し力なく笑った。その笑い方は、いつも動画で見せているような完璧な笑顔とは、明らかに違っていた。
「今日、久しぶりに、体が重いなって思いました」
「じゃあ、今日くらいはさっさと帰って寝ろよ」
「でも、今日中に投稿の予約設定しないといけないんです」
「それ後回しにしたら、フォロワー全員に見捨てられるのか」
「そんなことは……ないと思いますけど」
「じゃあ今日は帰って寝ろ。それで死ぬわけでもねえだろ」
リリアは少し驚いたような顔で俺を見た。それから、ゆっくりと頷いた。
「はい。今日は、早く帰ります」
鞄を持って教室を出ていくリリアの後ろ姿を、俺はしばらく見送っていた。いつもまっすぐに伸びている背筋が、今日は少しだけ、力が抜けているように見えた。
☆
翌日、教室に入ってきたリリアの顔色は、前日よりも幾分か良くなっていた。それでも、俺はなんとなく彼女の様子を気にかけていた。休み時間、リリアの周りには杏や千紘がいて、何やら話し込んでいる。
「リリア、ちゃんと寝たの」
「うん、久しぶりに、九時間くらい寝た」
「それ、いつぶり」
「たぶん、中学生の時以来かも」
リリアは苦笑しながらそう答えていた。その会話を教壇の近くで聞きながら、俺は自分が投げかけた一言が、思いのほか大きな意味を持っていたらしいことを、なんとなく実感していた。
放課後、職員室に戻る途中、廊下の窓から見える校庭には、初夏の日差しがまぶしく降り注いでいた。三宅先生が横に並んで歩きながら、ふと聞いてきた。
「先生、天城さんに何か言ったんですか。今日、なんかすっきりした顔してましたけど」
「べつに、たいしたことは言ってねえよ」
「またまた」
俺は特に説明する気にもならず、曖昧に答えを濁した。ただ、内心では、休みの日まで働き続けることを当たり前だと思い込んでいたリリアの姿が、少しだけ引っかかっていた。
好きなことのために頑張るのと、頑張りすぎて自分を追い込むのとは、案外、紙一重なのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は職員室への廊下を歩いていった。




