第十話 四十万人に見られる少女
翌日、昼休みが終わりかけたころ、教室が珍しく緊張した空気に包まれていた。
中心にいたのは、リリアと杏だった。二人とも、俺が教室に入ってきたことにすぐ気づいたが、それでも空気は張り詰めたままだった。
「どうした、何かあったのか」
声をかけると、杏が先に口を開いた。
「先生、聞いてください。リリアが、勝手に私を動画に映して、それ投稿しようとしてたんです」
「勝手にって、そんな大げさな話じゃないよ」
リリアが少し慌てた様子で口を挟む。
「さっき、教室でコーデ紹介の撮影してたんです。そしたら、たまたま杏が背景に映り込んじゃって」
「それだけならまだいいですよ。問題は、それを投稿しようとしてたことです」
「顔、隠せば大丈夫でしょ。ぼかし入れるし」
「そういう問題じゃなくて」
杏の声には、いつもの冷静な調子とは違う、はっきりとした苛立ちが混じっていた。俺は状況が飲み込めないまま、とりあえず二人の間に割って入った。
「ちょっと待て。順番に説明しろ」
リリアがスマホを取り出して、問題の動画を再生してみせた。教室の中で、リリアが新しい制服のアレンジを紹介している映像だった。カメラは基本的にリリア自身を映しているが、画面の端、教室の奥の方に、机に座って参考書を読んでいる杏の姿が、ほんの数秒間だけ映り込んでいる。
「これだけか」
「はい。時間にして三秒くらいです。それに、顔にはちゃんとモザイクかぼかしを入れるつもりでした」
「杏、これのどこが問題なんだ」
俺が率直に聞くと、杏は少し呆れたような目でこちらを見た。
「先生、わかってないですね」
「わかんねえから聞いてんだよ」
「私は、動画に映るなんて一言も了承してません。顔が隠れてても、教室の様子とか、後ろ姿とか、見る人が見れば誰だかわかる可能性だってあります。それに、ぼかし入れるだけで安心できる問題じゃないんです」
杏は続けて、スマホの画面をこちらに向けた。そこにはリリアの過去の投稿のコメント欄が表示されていて、フォロワーたちが動画の細部を分析するようなコメントを大量に書き込んでいる。
「リリアのフォロワー、四十万人ですよ。その中には、映り込んだ人物を特定しようとする人だって普通にいます。学校の場所とか、制服の特徴とか、そういうところから、この学校の生徒だって突き止められる可能性もあります」
「そんなことする奴いんのか」
「います。暇な人はどこにでもいます」
杏の説明を聞いて、俺はようやく事の深刻さの一端を理解し始めた。しかしリリアはまだ納得していない様子だった。
「でも、私の投稿って、そんなに拡散力あるわけじゃないし。それに、これまでも似たようなことは何度もあったけど、問題になったことなんてなかったよ」
「今まで問題になってないから大丈夫って理屈、なんか違くない?」
「じゃあどうすればいいの。撮影のたびに、教室にいる人全員に許可取るの?」
リリアの声にも、少し苛立ちが混じり始めていた。二人の言い合いは、平行線のまま続きそうな気配だった。
俺はしばらく黙って、二人のやり取りを聞いていた。正直、SNSの仕組みや、拡散の危険性について、細かいところまで理解しているわけではなかった。しかし、話の核心にあるものだけは、なんとなく見えてきた気がした。
「ちょっと待てよ」
俺はそう言って、二人の間に割って入った。
「難しい話は俺にはわかんねえけど、単純なことだけ聞くぞ」
「なんですか」
「杏、お前は映されて嫌だったのか」
「嫌でした。少なくとも、事前に一言くらいは欲しかったです」
「天城、お前はそれ聞いて、どう思う」
リリアは少し口ごもった後、小さく答えた。
「……嫌な思いさせたのは、悪かったと思う」
「なら、それだけでじゅうぶんじゃねえのか」
俺は簡潔にそう言った。
「映された側が嫌なら、それは駄目なんじゃねえの。ぼかし入れるとか入れないとか、拡散力があるとかないとか、そういう技術的な話の前に、まず杏が嫌だったって事実がある。それをどうにかするのが先だろ」
教室に、しばらく沈黙が流れた。リリアは俯いたまま、何かを考え込んでいるようだった。
「でも、私、悪気があって撮ったわけじゃないんです」
「悪気があったかどうかは、この際関係ねえだろ」
「え?」
「悪気がなくても、相手が嫌な思いしたなら、それは配慮が足りなかったってことだ。撮る側には撮る側の責任ってもんがあるんじゃねえの」
リリアは俺の言葉に、はっとしたような顔をした。
「撮る側の、責任……」
「お前、普段、撮られる側の気持ちってあんまり考えたことねえだろ」
その一言に、リリアは何も答えられずにいた。俺は続けた。
「お前は毎日、自分の姿を四十万人に見られる生活してる。それがどんな気分か、俺には正直わかんねえ。でも、その立場に慣れすぎて、逆の立場――勝手に映される側の気持ちを、想像しなくなってたんじゃねえのか」
教室が静まり返る中、リリアはゆっくりと杏の方を向いた。
「ごめん、杏。私、ちゃんと考えてなかった」
「……べつに、そんな謝られると、こっちも困るんだけど」
杏は少し照れくさそうに視線を逸らしながら、それでも表情は柔らかくなっていた。
「今後は、映り込みそうな時、ちゃんと確認してくれればそれでいいよ」
「うん、絶対そうする。あと、この動画も杏が映ってるところは使わない」
リリアはその場でスマホを操作し、杏が映り込んでいた部分を動画からカットした。杏はその様子を見て、ようやく肩の力を抜いたようだった。
☆
放課後、教室に残ったリリアが、片付けをしながら俺に声をかけてきた。
「先生」
「なんだ」
「私、今まで、撮る側の責任なんて、考えたことなかったです」
「まあ、毎日撮ってりゃ、感覚が麻痺するのも仕方ねえのかもな」
窓の外には、五月らしい柔らかい夕暮れの光が広がっていた。教室の机の列に、長く伸びた影が落ちている。
「私、フォロワーの人たちの反応ばっかり気にして、目の前にいる友達の気持ちを、後回しにしてたのかもしれません」
「気づいたなら、それでいいだろ」
リリアは少し考え込むような顔をした後、小さく笑った。
「先生って、SNSのことは全然わかってないのに、なんでこういう時だけ、ちゃんとしたこと言うんですか」
「複雑なことはわかんねえけど、嫌なもんは嫌、それだけは単純にわかる」
「その単純さが、今回は助かりました」
リリアはそう言うと、鞄を持って教室を出ていった。夕日に照らされたその後ろ姿は、いつもの「映える」ことを意識した姿勢とは違う、どこか自然な歩き方をしているように見えた。
俺は誰もいなくなった教室で、窓の外を眺めながら考えていた。SNSという仕組みの複雑さは、正直まだよくわからない。それでも、人と人との間にある、単純な「嫌だ」という気持ちだけは、どんな時代になっても変わらないものなのかもしれない。そんなことを思いながら、俺は教室の電気を消して廊下へと出ていった。




