第十一話 中間テストは女子高生を平等に苦しめる
五月中旬、教室の空気がいつもと違うことに、俺はすぐに気づいた。
休み時間になっても、教室を飛び回る生徒の数が明らかに減っている。代わりに、机に向かってノートを広げ、参考書とにらめっこしている生徒の姿が目立つようになっていた。
「なんだ、今日は静かだな」
俺がそう呟くと、千紘が呆れたように振り返った。
「先生、来週から中間テストですよ。忘れてたんですか」
「ああ、そういえば」
「担任なのに、そんな暢気でいいんですか」
「試験監督は俺じゃねえだろ」
「そういう問題じゃないと思います」
千紘の突っ込みに、俺は苦笑いを返すしかなかった。
教室を見渡すと、普段は騒がしいはずの二年桜組の面々が、それぞれ違ったスタイルで試験勉強に取り組んでいるのがわかった。
窓際では、玲華が几帳面に色分けされたノートを広げていた。数学、古文、英語、化学。どの教科も、丁寧な字でびっしりと要点がまとめられている。
「東雲、真面目だな」
「当然ですわ。東雲家の娘として、恥ずかしい成績は取れません」
「その理屈、毎回出てくるな」
玲華は涼しい顔でページをめくり続けていた。全教科でそつなく高得点を狙う、その姿勢は徹底している。
一方、その隣の席では、ミウが数学の応用問題を、驚くほどのスピードで解き進めていた。
「星川、それ来週のテスト範囲か」
「そう。もう終わったから、次のページやってる」
「もう終わったのかよ」
俺は思わずミウの手元を覗き込んだ。複雑な計算式が、迷いのない筆致でノートに書き連ねられている。数学に関しては、クラスの中でもトップクラスの実力を発揮していた。
しかし、その隣に置かれた古文のノートに目を移すと、様子はまったく違っていた。ページの端には、意味のわからない単語が赤ペンでいくつも書き込まれ、余白には「無理」「詰んだ」という文字が、投げやりに殴り書きされている。
「星川、こっちは全然進んでねえじゃねえか」
「古文は無理。マジで無理」
ミウは頭を抱えながら、教科書のページをぱらぱらとめくった。
「先生、『いとをかし』って結局なに?」
「文脈による」
「便利ワードじゃん」
「千年前の日本語に文句言うな」
俺がそう返すと、ミウは不満げに唇を尖らせた。
「数学は感覚でわかるのに、古文って何がなんだかさっぱり」
「感覚で数学できる奴が、なんで古文の感覚だけないんだよ」
「数字は嘘つかないけど、古文の言葉は嘘つきまくるじゃん。同じ単語なのに、文脈で意味変わるとか、卑怯だと思う」
その独特の理屈に、俺は思わず笑ってしまった。
「古文にも古文なりのルールがあんだよ」
「ルールがあるなら、もっとちゃんと教えてよ」
「テスト前に泣きつくのやめろ」
俺とミウのやり取りを、近くで聞いていた玲華が、少し呆れたような、それでいてどこか楽しそうな表情を浮かべていた。
「ミウ、普段わたくしに数学を教えてくださるのに、古文になると、そんなに情けない姿になりますのね」
「れーちゃんこそ、古文得意なんだから、逆に教えてよ」
「よろしいですわ」
二人はそのまま、教科の得意不得意を補い合うような形で、テスト前の勉強を続けていた。
「れーちゃん、そこ計算違う」
「……まだ何も申し上げておりませんけれど」
「顔見ればわかる」
☆
放課後、教室に残っていた俺の目に、天城リリアの様子が気にかかった。机には教科書とノートが広げられているものの、さっきから同じページで手が止まっている。
「天城、進んでるか」
「……あんまりです」
リリアは苦笑しながら、シャーペンを机に置いた。
「前みたいに徹夜はしてないんですけど、その分、撮影と勉強をどう両立するかが難しくて」
「両方全部やろうとしてんのか」
「できると思ってたんですけどね」
「なんとかするのは未来のお前だぞ」
「最近、その未来の私に丸投げしないようにはしてます」
そう言って、リリアは少しだけ困ったように笑った。
「今回の中間、まずいのか」
「たぶん、数学と化学、両方やばいです」
俺はしばらく考えた後、思い切って提案してみることにした。
「補習、やるか」
「え、いいです、そこまでしてもらわなくても」
「お前が赤点取ったら、俺も面倒なんだよ。素直に手伝わせろ」
リリアは少し迷った様子だったが、結局は小さく頷いた。
次の日の放課後、教室の片隅で、俺はリリアの勉強を見ることにした。とはいえ、俺が教えられるのは国語くらいだ。
「数学なら星川に聞け。あいつ得意だろ」
「先生、丸投げですか」
「専門外だからな」
「ミウ、私、数学教えてほしいです」
リリアが声をかけると、ひなたもすぐに手を挙げた。
「私も数学教えてほしいです」
「あたしも、化学ちょっと怪しい」
ミウも参考書を片手に加わってくる。
「私は、現代文の記述問題、見てもらえますか」
すみれが、いつもの落ち着いた口調で言った。彼女は現代文だけは異常に強かったが、他の教科にはあまり自信がないようだった。
気づけば教室には、玲華、ミウ、ひなた、リリア、すみれ、千紘、乃愛、杏。それ以外にも何人かの生徒が集まり、それぞれ自分の得意教科と苦手教科を持ち寄って、机を囲む即席の勉強会ができあがっていた。
「これ、なんか勉強会になってきてないか」
俺が呟くと、千紘が完璧に整理された試験計画表を広げながら、満足げに頷いた。
「効率的でいいと思います。得意な人が苦手な人に教える、それが一番身につきます」
千紘の計画表には、各教科の重要ポイントが、驚くほど細かくまとめられていた。
「お前、いつからこんなの作ってたんだ」
「一週間前からです。当然じゃないですか」
その几帳面さに、俺は改めて感心してしまった。
勉強会は思いのほか活気があった。玲華が古文の文法を丁寧にすみれに説明し、すみれが現代文の読解のコツをひなたに教える。ミウが数学の計算方法を、リリアと乃愛に伝授していく。
杏は、休憩がてらスマホを見ながら、バイトのシフト調整をしていた。
「今週だけ、シフト減らしてもらったんだ。テスト週間だから」
「杏、バイトと勉強、両立できてるのすごいよね」
千紘が感心すると、杏はあっさりと答えた。
「効率悪くなると、時給の割に合わないから、そこは調整するようにしてる」
その現実的な考え方に、周りの生徒たちも、なんとなく頷いていた。
その一方で、まったく別の問題を抱えている生徒もいた。
「先生、お願いします、五分だけ」
ひなたが、スマホの画面を握りしめながら俺に懇願していた。
「駄目だ」
「月風ルナ様の生配信が、今日この時間しかないんです」
「アーカイブで見ろ」
「アーカイブで見るのと、リアタイで見るのとは、全然違うんです」
「何が違うんだよ」
「リアタイにはリアタイにしかない栄養があるんです!」
「知らねえよ、その栄養」
俺が突き放すように言うと、ひなたは机に突っ伏して、大きなため息をついた。
「先生には、わかりません」
「わからねえよ、そんなもん」
周りで聞いていた杏が、呆れたように口を挟んだ。
「ひなた、今日は諦めなよ。テスト、赤点取ったら、推し活どころじゃなくなるよ」
「わかってる、わかってるけど……」
ひなたは未練がましくスマホの画面を見つめながら、それでもゆっくりと参考書に視線を戻していった。
「分からないところがあれば、質問を受け付けます」
白崎先生も桜組の教室に顔を出してきた。
化学選択の生徒たちは目を輝かせながら、質問をしに行く。
「先生、化学じゃない質問でもいいですか?」
「化学にしてください」
勉強会は日を追うごとに規模を増していき、放課後の教室は、まるで自習室のような空気に変わっていった。俺は教壇の近くで、それぞれの生徒の様子を見守りながら、ふと思った。
普段は全然違うタイプの生徒たちが、テスト前だけ、こうして同じ机を囲む。お嬢様も、ギャルも、推し活オタクも、インフルエンサーも、このときばかりは、ただの「テストに追われる高校生」という、共通の立場に立っている。
その光景は、なんだか妙に微笑ましいものに見えた。
試験当日、教室にはこれまでの緊張感が最高潮に達していた。答案用紙が配られる瞬間、いつもは賑やかな生徒たちが、一斉に静まり返る。
試験期間中、俺は生徒たちの様子をそれとなく観察していたが、特に印象的だったのは、ミウの姿だった。数学のテストでは、驚くほど集中した表情で、次々と問題を解き進めている。一方、古文のテストの時間には、明らかに苦戦している様子が見て取れた。
☆
全ての試験が終わった数日後、答案用紙の返却日がやってきた。
教室に、緊張した空気が漂う中、俺は一人ひとりに答案を返していった。
「星川」
「はい」
俺はミウに、数学と古文、二枚の答案を渡した。
数学の答案には、大きく「98」の文字。
古文の答案には、「43」の文字。
その落差を見た瞬間、俺は思わず口にしてしまった。
「落差で風邪ひくわ」
「数学できれば生きていけるし」
ミウは悪びれもせず、涼しい顔でそう言い切った。
「その理屈、大丈夫かよ」
「大丈夫。将来、古文使う仕事、そんなにないと思う」
その開き直った態度に、隣で自分の答案を確認していた玲華が、少し呆れたように口を挟んだ。
「古文も俺の担当範囲だけどな」
「千年前の日本語じゃん」
「古文に謝れ」
「ミウ、古文も勉強してくださいまし」
「れーちゃん、そこ先生みたい」
ミウがからかうように言うと、玲華は少し驚いたように目を丸くした。
「わたくし、先生のような口調でしたか」
「うん、完全に先生の真似」
「それは、少々、心外ですわ」
玲華が困ったような表情を浮かべる横で、俺は自分がそんなに真似されるほど印象的な口調をしているのだろうかと、少し複雑な気持ちになった。
その頃、リリアも自分の答案を確認しながら、安堵の表情を浮かべていた。
「先生、数学、赤点回避できました」
「良かったじゃねえか」
「補習、ちゃんと役に立ちました」
リリアは、そう言って晴れやかに笑った。あの勉強会で見せた疲れ切った表情とは、明らかに違う顔つきだった。
教室のあちこちで、それぞれの結果に一喜一憂する声が響いていた。ひなたは、推しの配信を我慢した甲斐あって、思っていたよりも良い点数が取れたらしく、小さくガッツポーズをしている。すみれは、現代文で満点近い点数を叩き出し、周りから羨望の声を浴びていた。
「先生、私、実は現代文だけは、誰にも負けない自信あります」
「その自信、他の教科にも分けてやれ」
「それとこれとは、話が別です」
すみれのきっぱりとした返答に、教室に笑いが起きる。
放課後、片付けをしながら、千紘がしみじみと呟いた。
「今回のテスト週間、なんか、みんなで乗り越えたって感じがしますね」
「そうか?」
「はい。普段は全然違うタイプの人たちが、テストの前だけ、同じ目標に向かって集まったのが、なんだか良かったなって」
その言葉に、俺も同意しないわけにはいかなかった。お嬢様も、ギャルも、推し活オタクも、インフルエンサーも、テストの前ではそれぞれ自分なりに苦しみ、助け合っていた。
答案用紙を片付けながら、俺はこのテスト期間で見えた、桜組の連中の意外な一面を思い返していた。中間テストってのも、案外悪いものじゃないのかもしれない。




