第十二話 百合オタクは恋愛に弱い
五月下旬に差し掛かったある日の放課後、俺は教室の忘れ物を届けに行こうとして、思わぬものを目撃することになった。
人気のなくなった教室の隅、すみれが自分の机に向かって、何やら熱心にノートへ書き込んでいる。近づいてみると、そのノートには複雑な相関図が描かれていた。中心には「玲華」「ミウ」という文字が並び、その周りを矢印やハートマークが取り囲んでいる。
「……何やってんだ、これ」
背後から声をかけると、すみれは肩をびくりと跳ねさせ、慌ててノートを胸に抱え込んだ。
「せ、先生、いつからそこに」
「今来たとこだけど。それ何の図だ」
「これは、その……関係性の考察ノートです」
「関係性の、考察」
すみれは観念したように、ゆっくりとノートを開いて見せてくれた。そこには玲華とミウのこれまでのやり取りが、日付とともに細かく記録されていた。「四月十日、ミウが玲華の髪を直す」「四月十五日、玲華がミウの飲み物を一口飲む」といった具合に、まるで研究論文のような緻密さだった。
「お前、これ毎日つけてんのか」
「毎日ではないですけど、気になる出来事があった時は」
「暇なのか」
「趣味です」
すみれはきっぱりとそう言い切った。
「私、玲華さんとミウさんの関係性を『れいみう』と呼んで、日々観察しているんです。あの二人の絶妙な距離感、それでいてお互いを否定し合う様子、非常に尊いものがありまして」
「尊いって、何がだよ」
「先生には、わからないと思います」
すみれの目が、急に熱っぽくなった。
「あの二人、絶対に付き合ってないって言い張るんですけど、玲華さんはミウさんにだけ心を許してますし、ミウさんは玲華さんの家柄をまったく気にしてません。この非対称な信頼関係こそが尊さの本質でして」
勢いに押された俺は、思わず一歩後ずさった。
「わ、わかった、わかったから」
「あと、玲華さんがミウさんの飲み物を一口もらう時の、あの躊躇いのなさ。あれは幼少期からの信頼の蓄積がなければ成立しない距離感なんです。先生、わかりますか」
「わかんねえよ」
「わかってください」
なぜか少し詰め寄られる形になり、俺は椅子に座らされたまま、三十分近くにわたって「れいみう」の魅力についての講義を受ける羽目になった。すみれの語りは熱を帯びるほどに専門用語が増えていき、俺の理解を完全に置き去りにしていった。
「――というわけで、玲華さんとミウさんは、いわゆる『友達以上恋人未満』の完成形であり、あの二人の関係性を安易に恋愛関係と断定することもまた、尊さを損なう行為だと私は考えているんです」
「結局、付き合ってるのか付き合ってないのか、どっちなんだよ」
「そこを明言してしまったら、尊さが終わるんです」
「なんだそりゃ」
俺には最後まで、すみれの言っていることの半分も理解できなかった。それでも、彼女がこの話をする時の熱量だけは、他の何よりも本物であることは伝わってきた。
☆
その翌日、俺は教室でまた別の光景を目にすることになった。
休み時間、乃愛がすみれの席に近づいていった。
「すみれちゃん」
「な、なんですか」
名前を呼ばれただけで、すみれの声が上ずっている。
「これ、今度貸してって言ってた本、持ってきたよ」
乃愛が差し出したのは、文庫本だった。すみれはそれを受け取ろうとして、指先が触れた瞬間、びくりと体を震わせた。
「あ、ありがとうございます」
「近くで読みたいから、今度感想聞かせてね」
乃愛はそう言って、少しだけすみれとの距離を詰めて微笑んだ。それだけのことだったが、すみれの顔は瞬く間に真っ赤に染まっていった。
「わ、わわわ私、あの、その」
言葉が完全に崩壊している。乃愛は不思議そうな顔をして首をかしげた。
「すみれちゃん、大丈夫? 顔、真っ赤だよ」
「だだだ大丈夫です、暑いだけです」
「今日、そんなに暑くなくない?」
「暑いんです、心が」
その返答に、乃愛はますます首をかしげていた。近くで見ていた俺は、あまりの豹変ぶりに驚いていた。昨日、あれほど熱心に他人の関係性を分析していた人物とは思えない狼狽ぶりだった。
乃愛が席に戻った後、すみれはしばらく机に突っ伏していた。俺は思わず声をかけてしまう。
「お前、さっきまであんなに他人の恋愛語ってたのに、自分のことになると壊滅的だな」
「な、なんのことですか」
「今の、明らかに動揺してただろ」
「動揺なんて、してません」
すみれは顔を背けたまま、必死に否定した。しかし耳まで赤くなっているのは、誰の目にも明らかだった。
「先生には、わかりません」
「さっきまでの説教返してやろうか」
「あれとこれとは話が別です」
すみれは頑なにそう言い張った。
☆
そのあと俺は職員室に戻る途中、廊下で三宅先生に会い、今日の出来事を話してみた。
「他人の関係性はあんなに詳しく分析するくせに、自分のこととなると全然駄目なんだよ、あいつ」
「ああ、高鳥さんですか。よくあるパターンですね」
「よくあるのか、これ」
「他人の恋愛を観察するのが好きな子って、大抵、自分の恋愛には臆病なんです。他人事だから冷静に分析できるけど、自分のことになると、感情が邪魔して何も見えなくなる」
三宅先生の説明に、俺はなんとなく納得してしまった。
「じゃああいつ、佐々岡のこと」
「さあ、それは私にはわかりませんけど」
三宅先生は意味深に笑いながら、それ以上は何も言わなかった。
☆
夕方、教室に鍵をかけようと戻ると、すみれがまだ一人で席に座っていた。窓の外には、初夏の柔らかい夕焼けが広がっている。
「まだ帰ってなかったのか」
「先生……」
すみれは俺の顔を見るなり、少し観念したような表情を浮かべた。
「私、他人の百合には強いのに、自分の百合には弱いんです」
「自覚あったのかよ」
「あります。痛いほどあります」
すみれはノートを閉じて、深いため息をついた。
「玲華さんとミウさんのことなら、何時間でも分析できます。あの二人の関係性の機微、非対称性、その全部を言語化できます。でも、自分のこととなると、頭が真っ白になって、何も考えられなくなるんです」
「佐々岡のこと、好きなのか」
直球で聞くと、すみれは慌てて両手を振った。
「ち、違います。ただ、佐々岡さんが、その、近くに来ると、なんか、変になるだけです」
「それを好きって言うんじゃねえのか」
「言いません、言いません、言いません」
すみれは顔を真っ赤にしたまま、机に突っ伏してしまった。夕日の光が、うつむいた彼女の背中を橙色に染めていく。
「まあ、無理に言葉にしなくてもいいけどよ」
俺はそう言いながら、教室の窓を閉めた。すみれは突っ伏したまま、くぐもった声で呟いた。
「先生、今日のこと、誰にも言わないでください」
「言わねえよ、べつに」
「特に、佐々岡さんには絶対に」
「わかってるって」
俺は苦笑しながら教室を後にした。廊下を歩きながら、他人の関係性には誰よりも敏感なくせに、自分の感情にはまるで気づけない、あるいは気づかないふりをしているすみれの姿を思い返していた。人の心というのは、案外そういうふうにできているものなのかもしれない。
窓の外では、初夏の夕焼けが、校舎全体をゆっくりと橙色に染め上げていた。




